解けて来た。傾いた村道に水が流れ底から小石がむき出ている。五六日は東京へ帰る準備で私は日を費していたが、さて身を起して出発しようとすると、意外なふかさで自分の根の土に張っているのを感じた。おそらく私はもう一度この村へ来ることはあるまい。そう思うと、石の間を流れる細流の曲りも靴を洗ってくれているようだ。
私は手荷物を用意してから、竹林の孟宗の節を眺め、降りて来る薄闇の中の山を見ていた。炉端から柴を折る音がしている。どういうものか私は庭の鯉が見たくなって覗くと、夕暮れの石垣の根に鯉は沈んでいてよく見えない。
「久左衛門さんがもうお見えになりましたよ。」と妻が云った。
黒い釣鐘マントを着た久左衛門が庭に立っていて、もう私の荷物を下げていた。私は炉端へ行って参右衛門夫妻に別れの挨拶をした。参右衛門の丸い膝頭が白くはみ出ている前で、礼をする私の眼から涙が出て来た。炉の煙が低く匐《はらば》い流れている筵《むしろ》へ清江も並んでいる。
「一週間もすれば家内らも立ちましょうから、それまで宜敷く願います。」
出立といっても、今夜は、久左衛門が取って置いてくれた駅前の蕎麦《そば》屋で私は泊ることになっていて時間を気にする要もなかったが、待っていてくれる久左衛門に私もゆっくりは出来なかった。それに間もなく夜路は見えなくなる。
私は宗左衛門のあばにも挨拶に廻った。脚絆をつけた嫁が出て来たが、あばは留守だった。外へ出てから久左衛門の長男の所へ私は挨拶にまた行った。由良の老婆も裏口へ出ていた。私が別家の長男に表口から挨拶をしようとすると、裏口に私が皆と一緒にいると思ったらしい長男は裏へ廻った。外で見ている長男の嫁や老婆が表だ表だというと、今度は表へ廻ったらしい。しかし、そのときには私は裏口へ長男の廻っている様子を察してまた裏へ廻っていた。見ているものらには両方が分るので鼬鼠《いたち》ごっこの二人を見て、あはあは笑いながら表だ裏だという。どちらが裏か表か分らず二人はますます困るばかりだった。
久左衛門は駅までのいつもの路を選ばず、山添いに釈迦堂の方の路を選んで歩いた。少し遠いが路はその方が良いそうだ。天作が毎朝暗いうちから白土を掘り出しに通う路で、また由良から老婆が通って来る路でもある。釈迦堂の下まで来たとき、久左衛門に下で待っていてもらって私一人釈迦堂へ参拝した。堂までの参道を登る石
前へ
次へ
全111ページ中108ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング