方母子二人を奪い返してしまったことである。父母の別れていることは絶ちがたい栖方のひそかな悩みであった。しかし、梶はこの栖方の家庭上の悩みには話題を触れさせたくはなかった。勤皇と左翼の争いは、日本の中心問題で、触れれば、忽ち物狂わしい渦巻に巻き襲われるからである。それは数学の排中律に似た解決困難な問題だった。栖方は、その中心の渦中に身をひそめて呼吸をして来たのであってみれば、父と母との争いのどちらに想《おも》いをめぐらせるべきか、という相反する父母二つの思想体系にもみぬかれた、彼の若若しい精神の苦しみは、想像にかたくない。同一の問題に真理が二つあり、一方を真理とすれば他の方が怪しく崩れ、二つを同時に真理とすれば、同時に二つが嘘《うそ》となる。そして、この二つの中間の真理というものはあり得ないという数学上の排中律の苦しみは、栖方にとっては、父と母と子との間の問題に変っていた。
 しかし、勤皇と左翼のことは別にしても、人の頭をつらぬく排中律の含んだこの確率だけは、ただ単に栖方一人にとっての問題でもない。実は、地上で争うものの、誰の頭上にも降りかかって来ている精神に関した問題であった。これから
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