は――」
笑う声が薄気味わるく夜の灯火の底でゆらめいていた。五百万人の狂人の群れが、あるいは今一斉にこうして笑っているのかしれない。尋常ではない声だった。
「あははははは……」
長く尾をひくこの笑い声を、梶は自分もしばらく胸中にえがいてみていた。すると、しだいにあはははがげらげらに変って来て、人間の声ではもうなかった。何ものか人間の中に混じっている声だった。
自分を狂人と思うことは、なかなか人にはこれは難しいことである。そうではないと思うよりは、難しいことであると梶は思った。それにしても、いまも梶には分らぬことが一つあった。人間は誰でも少しは狂人を自分の中に持っているものだという名言は、忘れられないことの一つだが、中でもこれは、かき消えていく多くの記憶の中で、ますます鮮明に膨れあがって来る一種異様な記憶であった。
それも新緑の噴き出て来た晩春のある日のことだ。
「色紙を一枚あなたに書いてほしいという青年がいるんですが、よろしければ、一つ――」
知人の高田が梶の所へ来て、よく云われるそんな注文を梶に出した。別に稀《まれ》な出来事ではなかったが、このときに限って、いつもと違う特別
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