ら悲しく、梶は、街路樹の幹の皮の厚さを見過してただ歩くばかりだった。彼は早く灯火の見える辻《つじ》へ出たかった。丁度、そうして夕暮れ鉄材を積んだ一隊の兵士と出会った場所まで来たとき、溌剌《はつらつ》としていた昼間の栖方を思い出し、やっと梶は云った。
「しかし、君、そういうところから人間の生活は始まるのだから、あなたもそろそろ始まって来たのですよ。何んでもないのだ、それは。」
「そうでしょうか。」
「誰にもすがれないところへ君は出たのさ。零《ゼロ》を見たんですよ。この通りは狸穴といって、狸《たぬき》ばかり棲《す》んでいたらしいんだが、それがいつの間にか、人間も棲むようになって、この通りですからね。僕らの一生もいろんなところを通らねばならんですよ。これだけはどう仕様もない。まァ、いつも人は、始まり始まりといって、太鼓でも叩《たた》いて行くのだな。死ぬときだって、僕らはそう為《し》ようじゃないですか。」
「そうだな。」
 漸《よう》やく泣き停ったような栖方の正しい靴音が、また梶に聞えて来た。六本木の停留所の灯が二人の前へさして来て、その下に塊《かたま》っている二三の人影の中へ二人は立つと、電車が間もなく坂を昇って来た。

 秋風がたって九月ちかくなったころ、高田が梶の所へ来た。栖方の学位論文通過の祝賀会を明日催したいから、梶に是非出席してほしい、場所は横須賀で少し遠方だが、栖方から是非とも梶だけは連れて来て貰いたいと依頼されたということで、会を句会にしたいという。句会の祝賀会なら出席することにして、梶は高田の誘いに出て来る明日を待った。
「どういう人が今日は出るのです。」
 と、梶は次の日、横須賀行の列車の中で高田に訊ねた。大尉級の海軍の将校数名と俳句に興味を持つ人たちばかりで、山の上にある飛行機製作技師の自宅で催すのだと、高田の答えであった。
「この技師は俳句も上手《うま》いが、優秀な豪《えら》い技師ですよ。僕と俳句友達ですから、遠慮の要《い》らない間柄なんです。」と高田は附加して云った。
「しかし、憲兵に来られちゃね。」
「さァ、しかし、そこは句会ですから、何とかうまくやるでしょう。」
 途中の間も、梶と高田は栖方が狂人か否かの疑問については、どちらからも触れなかった。それにしても、栖方を狂人だと判定して梶に云った高田が、その栖方の祝賀会に、梶を軍港まで引き摺《ず》り出そうとするのである。技師の宅は駅からも遠かった。海の見える山の登りも急な傾きで、高い石段の幾曲りに梶は呼吸がきれぎれであった。葛《くず》の花のなだれ下った斜面から水が洩れていて、低まっていく日の満ちた谷間の底を、日ぐらしの声がつらぬき透っていた。
 頂上まで来たとき、青い橙《だいだい》の実に埋った家の門を這入《はい》った。そこが技師の自宅で句会はもう始っていた。床前に坐《すわ》らせられた正客の栖方の頭の上に、学位論文通過祝賀俳句会と書かれて、その日の兼題も並び、二十人ばかりの一座は声もなく句作の最中であった。梶と高田は曲縁の一端のところですぐ兼題の葛の花の作句に取りかかった。梶は膝《ひざ》の上に手帖を開いたまま、中の座敷の方に背を向け、柱にもたれていた。枝をしなわせた橙の実の触れあう青さが、梶の疲労を吸いとるようであった。まだ明るく海の反射をあげている夕空に、日ぐらしの声が絶えず響き透っていた。
「これは僕の兄でして。今日、出て来てくれたのです。」
 栖方は後方から小声で梶に紹介した。東北なまりで、礼をのべる小柄な栖方の兄の頭の上の竹筒から、葛《くず》の花が垂れていた。句会に興味のなさそうなその兄は、間もなく、汽車の時間が切れるからと挨拶《あいさつ》をして、誰より先に出ていった。
「橙《たう》青き丘の別れや葛の花」
 梶《かじ》はすぐ初めの一句を手帖に書きつけた。蝉《せみ》の声はまだ降るようであった。ふと梶は、すべてを疑うなら、この栖方《せいほう》の学位論文通過もまた疑うべきことのように思われた。それら栖方のしていることごとが、単に栖方個人の夢遊中の幻影としてのみの事実で、真実でないかもしれない。いわば、その零《ゼロ》のごとき空虚な事実を信じて誰も集り祝っているこの山上の小会は、いまこうして花のような美しさとなり咲いているのかもしれない。そう思っても、梶は不満でもなければ、むなしい感じも起らなかった。
「日ぐらしや主客に見えし葛の花」と、また梶は一句書きつけた紙片を盆に投げた。
 日が落ちて部屋の灯が庭に射《さ》すころ、会の一人が隣席のものと囁《ささや》き交しながら、庭のま垣の外を見詰めていた。垣裾《かきすそ》へ忍びよる憲兵の足音を聞きつけたからだった。主宰者が憲兵を中へ招じ入れたものか、どうしたものかと栖方に相談した。
「いや、入れちゃ不可《いか》ん。癖になる。
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