い夏服の将官たちが入口から流れ込んで来た。梶は、敗戦の将たちの灯火を受けた胸の流れが、漣《さざなみ》のような忙しい白さで着席していく姿と、自分の横の芝生にいま寝そべって、半身を捻《ね》じ曲げたまま灯の中をさし覗《のぞ》いている栖方を見比べ、大厦《たいか》の崩れんとするとき、人皆この一木に頼るばかりであろうかと、あたりの風景を疑った。一人の明※[#「析/日」、第3水準1−85−31]判断《めいせきはんだん》のない狂いというものの持つ恐怖は、も早や日常茶飯事の平静ささえ伴なっている静かな夕暮だった。
「ここへ来る人間は、みなあの部屋へ這入《はい》りたいのだろうが、今夜のあの灯の下には哀愁があるね。前にはソビエットが見ているし。」
「僕は、本当は小説を書いてみたいんですよ。帝大新聞に一つ出したことがあるんですが、相対性原理を叩《たた》いてみた小説で、傘屋の娘というです。」
どういう栖方《せいほう》の空想からか、突然、栖方は手枕《てまくら》をして梶《かじ》の方を向き返って云った。
「ふむ。」梶はまことに意外であった。
「長篇《ちょうへん》なんですよ。数学の教授たちは面白い面白いと云ってくれましたが、僕はこれから、数学を小説のようにして書いてみたいんです。あなたの書かれた旅愁というの、四度読みましたが、あそこに出て来る数学のことは面白かったなア。」
考えれば、寝ても立ってもおられぬときだのに、大厦《たいか》を支える一木が小説のことをいうのである。遽《あわただ》しい将官たちの往《ゆ》き来《き》とソビエットに挟まれた夕闇《ゆうやみ》の底に横たわりながら、ここにも不可解な新時代はもう来ているのかしれぬと梶は思った。
「それより、君の光線の色はどんな色です。」と梶は話を反らせて訊《たず》ねた。
「僕の光線は昼間は見えないけども、夜だと周囲がぽッと青くて、中が黄色い普通の光です。空に上ったら見ていて下さい。」
「あそこでやっている今夜の会議も、君の光の会議かもしれないな。どうもそれより仕様がない。」
暗くなってから二人は帰り仕度をした。携帯品預所で栖方は、受け取った短剣を腰に吊《つ》りつつ梶に、「僕は功一級を貰うかもしれませんよ。」と云って、元気よく上着を捲《ま》くし上げた。
外へ出て真ッ暗な六本木の方へ、歩いていくときだった。また栖方は梶に擦りよって来ると、突然声をひそめ、今まで抑《おさ》えていたことを急に吐き出すように、
「巡洋艦四|隻《せき》と、駆逐艦四隻を沈めましたよ。光線をあてて、僕は時計をじっと計っていたら、四分間だった。たちまちでしたよ。」
あたりには誰もいなかった。暗中|匕首《あいくち》を探ぐってぐっと横腹を突くように、栖方は腰のズボンの時計を素早く計る手つきを示して梶に云った。
「しかし、それなら発表するでしょう。」
「そりゃ、しませんよ。すぐ敵に分ってしまう。」
「それにしても――」
二人はまた黙って歩きつづけた。緊迫した石垣の冷たさが籠《こ》み冴《さ》えて透《とお》った。暗い狸穴《まみあな》の街路は静な登り坂になっていて、ひびき返る靴音だけ聞きつつ梶は、先日から驚かされた頂点は今夜だったと思った。そして、栖方の云うことを嘘《うそ》として退けてしまうには、あまりに無力な自分を感じてさみしかった。いや、それより、自分の中から剥《は》げ落ちようとしている栖方の幻影を、むしろ支えようとしているいまの自分の好意の原因は、みな一重に栖方の微笑に牽引《けんいん》されていたからだと思った。彼はそれが口惜しく、ひと思いに彼を狂人として払い落してしまいたかった。梶は冷然としていく自分に妙に不安な戦慄《せんりつ》を覚え、黒黒とした樹立《こだち》の沈黙に身をよせかけていくように歩いた。
「僕はね、先生。」とまた暫《しばら》くして、栖方は梶に擦りよって来て云った。「いま僕は一つ、悩んでいることがあるんですよ。」
「何んです。」
「僕は今まで一度も、死ぬということを恐《こわ》いと思ったことはなかったんですが、どういうものだが、先日から死ぬことが恐くなって来たんです。」
栖方の本心が眼覚《めざ》めて来ている。梶はそう思って、「ふむ」と云った。
「何ぜでしょうかね。僕はもうちょっと生きていたいのですよ。僕はこのごろ、それで眠れないのです。」
深部の人間が揺れ動いて来ている声である。気附いたなと梶は思った。そして、耳をよせて次の栖方の言葉を待つのだった。また二人は黙って暫く歩いた。
「僕はもう、誰かにすがりつきたくって、仕様がない。誰もないのです。」
今まで無邪気に天空で戯れていた少年が人のいない周囲を見廻《みまわ》し、ふと下を覗《のぞ》いたときの、泣きだしそうな孤独な恐怖が洩《も》れていた。
「そうだろうな。」
答えようのない自分がうす
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