出そうとするのである。技師の宅は駅からも遠かった。海の見える山の登りも急な傾きで、高い石段の幾曲りに梶は呼吸がきれぎれであった。葛《くず》の花のなだれ下った斜面から水が洩れていて、低まっていく日の満ちた谷間の底を、日ぐらしの声がつらぬき透っていた。
 頂上まで来たとき、青い橙《だいだい》の実に埋った家の門を這入《はい》った。そこが技師の自宅で句会はもう始っていた。床前に坐《すわ》らせられた正客の栖方の頭の上に、学位論文通過祝賀俳句会と書かれて、その日の兼題も並び、二十人ばかりの一座は声もなく句作の最中であった。梶と高田は曲縁の一端のところですぐ兼題の葛の花の作句に取りかかった。梶は膝《ひざ》の上に手帖を開いたまま、中の座敷の方に背を向け、柱にもたれていた。枝をしなわせた橙の実の触れあう青さが、梶の疲労を吸いとるようであった。まだ明るく海の反射をあげている夕空に、日ぐらしの声が絶えず響き透っていた。
「これは僕の兄でして。今日、出て来てくれたのです。」
 栖方は後方から小声で梶に紹介した。東北なまりで、礼をのべる小柄な栖方の兄の頭の上の竹筒から、葛《くず》の花が垂れていた。句会に興味のなさそうなその兄は、間もなく、汽車の時間が切れるからと挨拶《あいさつ》をして、誰より先に出ていった。
「橙《たう》青き丘の別れや葛の花」
 梶《かじ》はすぐ初めの一句を手帖に書きつけた。蝉《せみ》の声はまだ降るようであった。ふと梶は、すべてを疑うなら、この栖方《せいほう》の学位論文通過もまた疑うべきことのように思われた。それら栖方のしていることごとが、単に栖方個人の夢遊中の幻影としてのみの事実で、真実でないかもしれない。いわば、その零《ゼロ》のごとき空虚な事実を信じて誰も集り祝っているこの山上の小会は、いまこうして花のような美しさとなり咲いているのかもしれない。そう思っても、梶は不満でもなければ、むなしい感じも起らなかった。
「日ぐらしや主客に見えし葛の花」と、また梶は一句書きつけた紙片を盆に投げた。
 日が落ちて部屋の灯が庭に射《さ》すころ、会の一人が隣席のものと囁《ささや》き交しながら、庭のま垣の外を見詰めていた。垣裾《かきすそ》へ忍びよる憲兵の足音を聞きつけたからだった。主宰者が憲兵を中へ招じ入れたものか、どうしたものかと栖方に相談した。
「いや、入れちゃ不可《いか》ん。癖になる。
前へ 次へ
全28ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング