に放心は得られそうにもなかった。伝教とて、時の政府を動かすことに夢中になる以上に、所詮《しょせん》は放心を得んとして中心をこの山上に置いたにちがいないであろうが、それなら、それは完全な誤りであったのだ。定雄は根本中堂が広場より低い窪地《くぼち》の中に建てられて、眼下の眺望《ちょうぼう》を利《き》かなくさせて誤魔化してあるのも、苦慮の一策から出たのであろうと思ったが、すでに、中堂そのものが山上にあるという浪漫主義的な欠点は、一派の繁栄に当然の悪影響を与えているのである。
 定雄は清と千枝子をつれて、いくらか下り加減になって道をまた歩いた。ここは京向きの道より雪も消えて明るいためでもあろう。鶯の鳴き声は前より一段と賑《にぎ》やかになって来た。彼は途中、青いペンキを塗った鶯の声を真似《まね》る竹笛を売っていたので、それを買って一つ自分が持ち、二つを清にやった。その小さな笛は、尻を圧《おさ》える指さきの加減一つで、いろいろな鶯の鳴き声を出すことが出来た。定雄は清に一声吹いてみせると、もう疲れで膨《ふく》れていた清も急ににこつき出して自分も吹いた。歩く後から迫って来るのか、鶯の声は湧《わ》き上るように頭の上でしつづけた。
 定雄は吹く度にだんだん上達する笛の面白さにしばらく楽んで歩いていると、清も両手の笛を替る替る吹き変えては、木の梢《こずえ》から辷《すべ》り流れる日光の斑点《はんてん》に顔を染めながら、のろのろとやって来た。
「まるで子供二人つれて来たみたいだわ。早くいらっしゃいよ」
 千枝子は清の来るのを待って云った。清は母親に云われる度に二人の方へ急いで馳《か》けて来たが、またすぐ立ち停った。道が樹のない崖際《がけぎわ》につづいて鶯の声もしなくなると、今度は清と定雄とが前と後とで竹笛を鳴き交《かわ》せて鶯の真似をして歩いた。そのうちに清もいつの間にか上手になって、
「ケキョ、ケキョ、ホーケッキョ」
とそんな風なところまで漕《こ》ぎつけるようになって来た。
「あ奴《いつ》の鶯はまだ子供だね。俺のは親鳥だぞ。お前も一つやってみないか」
 定雄は笑いながら千枝子にそう云って、
「ホー、ホケキョ、ホー、ホケキョ」とやるのであった。
 千枝子は相手にしなかったが、崖を曲るたびに現れる湖を見ては、手を額にあてながら楽しそうに立ち停って眺めていた。
 間もなく三人はケーブルまで着いたが、まだ下る時間まで少しあったので、深い谷間に突き出た峰の頭を切り開いた展望場の突端へ行って、そこのベンチに休んだ。定雄は榧《かや》の密林の生え上って来ている鋭い梢の間から湖を見ていたが、ベンチの上に足を組むと仰向きに長くなった。彼は疲労で背中がべったりと板にへばりついたように感じた。すると、だんだん板に吸われていく疲労の快感に心は初めて空虚になった。彼はもう傍《そば》にいる子のことも妻のことも考えなかった。そうして眼を一点の曇りもない空の中に放ってぼんやりしていると、ふと自分が今死ねば大往生が出来そうな気がして来た。もう望みは自分には何もないと彼は思った。いや、枕が一つ欲しいと思ったが、それもなくとも別にたいしたことでもなかった。
 千枝子も疲れたのか黙って動かなかったが、清だけはまだ、「ホー、ケッキョ、ケッキョ」と根よくくり返して笛を吹いた。
 定雄はしばらく寝たまま日光にあたっていたが、もう間もなく発車の時刻になれば、今の無上の瞬間もたちまち過去の夢となるのだと思った。そのとき、急に彼の頭の中に、子のない自分の友人たちの顔が浮んで来た。すると、それは有り得べからざる奇妙な出来事のような気がして来て、どうして子のないのに日々を忍耐していくことが出来るのかと、無我夢中に暴れ廻った延暦寺《えんりゃくじ》の僧侶達の顔と一緒になって、しばらくは友人たちの顔が彼の脳中を去らなかった。しかし、これとて、ないものはないもので、有るものの煩悩《ぼんのう》のいやらしさをおかしく眺めて暮し終るのであろうと思い直し、ふとまた定雄は天上の澄み渡った中心に眼を向けた。
「神神よ照覧あれ、われここに子を持てり」
 彼は俎《まないた》の上に大の字になって横《よこたわ》ったように、ベンチの上にのびのびと横っていた。彼は伝教のことなどもう今はどうでもよかった。しかし、時間は意外に早くたったと見えて、うつらうつら睡気《ねむけ》がさして来かかったとき、
「もう切符を切っていましてよ。早く行かないと遅れますわ」突然千枝子が云った。
「発車か、何んでも来い」と定雄は不貞不貞《ふてぶて》しい気になって起き上った。彼は坂道を駅の方へ馳け登って行く千枝子と清の背中を眺めながら、後から一人遅れて歩いていった。
 定雄が車に乗るとすぐケーブルのベルが鳴った。つづいて車は湖の中へ刺さり込むように三人を乗せて真直ぐに
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