端に、中継の柱のところで、急にごとりと車体が一度ずり下った。一同は息の根をとめて互に顔を見合したが、中継の柱が行きすぎた車の後方に見えると、初めて納得したらしくまた急に声を上げて、あれだあれだと云って笑い出した。しかし、そのときにはもう新しく前方から来た車は、皆のびっくりしている顔の前を行き過ぎていたので、双方の車は安心のあとの陽気な気持ちで、互に手拭《てぬぐい》を振り合って一層前よりはしゃいだ。
車を降りて初めて地を踏んだとき、清は大きな声で、
「恐《こわ》かったね、さっき、ごとりっていうんだもの。僕、落っこちたかと思った」と千枝子に云った。
すると、車を降りてからもうずっと前方を歩いている人人まで、振り返ってまたどっと笑い出した。
頂上の根本中堂《こんぽんちゅうどう》まではまだ十八町もあるというので、駕籠《かご》をどうかと定雄は思ったが、千枝子は歩きたいと云った。駕籠かきはしきりに雪解の道の悪さを説明しながら三人の後を追って来てやめなかった。しかし、定雄も千枝子も相手にせず歩いて行くと、なるほど雪は草履を埋めるほどの深さでどこまでも延びていた。
「どうだ、乗るか」とまた定雄は後を振り返った。
「歩きましょうよ。こんなときでも歩かなければ、何しに来たのか分らないわ」と千枝子は云った。
定雄には、道はどこまでも平坦なことは分っていたが、清も弱るし、濡《ぬ》れた草履の冷たさは後で困ると思ったので、
「乗ろうじゃないか。気持ちが悪いよ」とまたすすめた。
「あたしは乗らないわ、だって登りがもうないんでしょう」と千枝子はまだ頑強《がんきょう》に一人先に立って雪の中を歩いていった。
「それじゃ、困ったって知らないぞ」と定雄は云うと尻《しり》を端折《はしょ》った。
道は暗い杉の密林の中をどこまでもつづいた。千枝子と定雄は中に清を挟《はさ》んで、固そうな雪の上を選びながら渡っていった。ひやりと肌寒い空気の頬《ほお》にあたって来る中で、鶯《うぐいす》がしきりに羽音を立てて鳴いていた。定雄は歩きながらも、伝教大師《でんぎょうだいし》が都に近いこの地に本拠を定めて高野山の弘法《こうぼう》と対立したのは、伝教の負けだとふと思った。これでは京にあまり近すぎるので、善《よ》かれ悪《あ》しかれ、京都の影響が響きすぎて困るにちがいないのである。そこへいくと弘法の方が一段上の戦略家だと思
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