と定雄はまた云った。
「いいわ。歩けるわね」と千枝子は後ろの清を振り返った。
「それでも、まだまだ遠いどすえ。こんなお子さんで歩けやしまへんが、安う負けときますわ」と婆さんは云いながら、今度は清と定雄の間へ割り込んで来た。
「でも、この子は足が強いんですから、もういいんですの」
「負ってもらえ負ってもらえ」と定雄は云った。
「だって、もうすぐなんでしょう」と千枝子は婆さんに訊《たず》ねた。
「まだまだありますえ。安うお負けしときますがな。二十銭でいきますわ。どうせ帰りますのやで、一つ負わしておくんなはれ」
 あくまで擦《す》りよって歩いて来る婆さんに、千枝子も根負けがしたらしく、
「清ちゃん、どうする。おんぶして貰う?」と訊ねた。
「僕、歩く」と清は云って婆さんから身を放した。
 こんなときには、長く一人児だった清はいつも母親の方の味方をするに定《きま》っていた。
「あなた坂本まで帰るんですの」と千枝子は婆さんに訊ねた。
「ええ、そうです。毎日通ってますのや」
「おんぶして貰う人ありまして、こんなとこ?」
「このごろはあんまりおへんどすな。毎日手ぶらどすえ」と婆さんは云ったが、もう清を負うのは断念したらしく、旅の道連れという顔つきで千枝子と暢気《のんき》に並んで歩き出した。
 定雄は傾きかかった気持ちもようやく均衡の取れて来るのを感じた。しかし、清は母と父とが自分のことで先から険悪になりかかっているのを感じているので、定雄が傍へ近づくとすぐ千枝子の身近へひっついて歩いた。定雄はこれから次ぎのケーブルまでこの婆さんがついて来るのだと思うと、気持ちを直してくれた婆さんであるにもかかわらず、先のいらだたしさがいつまた絡《から》みついて来るか知れない不安さを感じたので、今度は一番先頭に立って歩いていった。彼は歩きながらも、いま一人ここを歩いていたのでは今以上の満足を感じないであろうと思った。彼は幾度も京からこの道を通ったにちがいない伝教が、このあたりで、どんな満足を感じようとしたのかと、ふと雪路を歩いて浮ぶ彼の孤独な心理について考えてみた。伝教とて一山をここに置く以上は、衆生《しゅじょう》済度の念願もこのあたりの淋《さび》しさの中では、凡夫の心頭を去来する雑念とさして違う筈《はず》はあるまいと思われた。しかし、そのとき、定雄の頭の中には、京都を見降ろし、一方に琵琶湖の景勝を
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