大兄は卑弥呼の方へ振り向いて彼女にいった。
「爾の早き夜は不吉である。」
「大兄、旅の者に食を与えよ。」
「爾は彼を伴《とも》のうて食を与えよ。」
「良きか、旅の者は病者のように痩せている。」
大兄は黙って若者の顔を眺めた。
「大兄、爾はここにいて我を待て、我は彼を贄殿《にえどの》へ伴なおう。」卑弥呼は毛皮を被《かぶ》って若者の方を振り向いた。「我に従って爾は来《きた》れ。我は爾に食を与えよう。」
「卑弥呼、我は最早《もは》や月を見た。我はひとりで帰るであろう。」大兄は彼女を睥んでいった。
「待て、大兄、我は直ちに帰るであろう。」
「行け。」
「大兄よ。爾は我に代って彼を伴なえ、我は此処で爾を待とう。」
「行け、行け、我は爾を待っている。」
「良きか。」
「良し。」
「来れ。」と卑弥呼は若者に再びいった。
若者は、月の光りに咲き出た夜の花のような卑弥呼の姿を、茫然《ぼうぜん》として眺めていた。彼女は大兄に微笑を与えると、先に立って宮殿の身屋《むや》の方へ歩いていった。若者は漸く麻鞋《おぐつ》を動かした。そうして、彼女の影を踏みながらその後から従った。大兄の顔は顰《ゆが》んで来た。彼は小石を拾うと森の中へ投げ込んだ。森は数枚の柏の葉から月光を払い落して呟《つぶや》いた。
三
身屋《むや》の贄殿《にえどの》の二つの隅《すみ》には松明が燃えていた。一人の膳夫《かしわで》は松明の焔《ほのお》の上で、鹿の骨を焙《あぶ》りながら明日の運命を占っていた。彼の恐怖を浮べた赧《あか》い横顔は、立ち昇る煙を見詰めながらだんだんと悦《よろこ》びの色に破れて来た。そのとき、入口の戸が押し開けられて、後に一人の若者を従えた王女卑弥呼が這入《はい》って来た。膳夫は振り向くと、火のついた鹿の骨を握ったまま真菰《まこも》の上に跪拝《ひざまず》いた。卑弥呼は後の若者を指差して膳夫にいった。
「彼は路に迷える旅の者。彼に爾は食を与えよ。彼のために爾は臥所《ふしど》を作れ。」
「酒は?」
「与えよ。」
「粟《あわ》は?」
「与えよ。」
彼女は若者の方を振り向いて彼にいった。
「我は爾を残して行くであろう。爾は爾の欲する物を彼に命じよ。」
卑弥呼は臂《ひじ》に飾った釧《くしろ》の碧玉《へきぎょく》を松明に輝かせながら、再び戸の外へ出て行った。若者は真菰《まこも》の下に突き立ったまま、その落ち窪んだ眼を光らせて卑弥呼の去った戸の外を見つめていた。
「旅の者よ。」と、膳夫の声が横でした。
若者は膳夫の顔へ眼を向けた。そうして、彼の指差している下を見た。そこには、海水を湛《たた》えた※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1−88−72]《もい》の中に海螺《つび》と山蛤《やまがえる》が浸してあった。
「かの女《おんな》は何者か。」
「この宮の姫、卑弥呼という。」
膳夫は彼の傍から隣室の方へ下がっていった。やがて、数種の行器《ほかい》が若者の前に運ばれた。その中には、野老《ところ》と蘿蔔《すずしろ》と朱実《あけみ》と粟とがはいっていた。※[#「木+怱」、第3水準1−85−87]《たら》の木の心から製した※[#「酉+璃のつくり」、第4水準2−90−40]《もそろ》の酒は、その傍の酒瓮《みわ》の中で、薫《かん》ばしい香気を立ててまだ波々と揺《ゆら》いでいた。若者は片手で粟を摘《つま》むと、「卑弥呼。」と一言呟いた。
そのとき、君長《ひとこのかみ》の面前から下がって来た一人の宿禰《すくね》が、八尋殿《やつひろでん》を通って贄殿の方へ来た。彼は痼疾《こしつ》の中風症に震える老躯《ろうく》を数人の使部《しぶ》に護《まも》られて、若者の傍まで来ると立ち停った。
「爾は何処の者か。」
宿禰の垂れ下った白い眉毛《まゆげ》は、若者を見詰めている眼の上で慄《ふる》えていた。
「我は路に迷える旅の者。」
「爾の額《ひたい》の刺青《ほりもの》は※[#「王+夬」、第3水準1−87−87]《けつ》である。爾は奴国《なこく》の者であろう。」
「否《いや》。」
「爾の顎《あご》の刺青は月である。爾は奴国の貴族であろう。」
「否。」
「爾の唇の刺青は蔓《つる》である。爾は奴国の王子であろう。」
「否、我は路に迷える旅の者。」
「やめよ。爾の祖父は不弥《うみ》の王母《おうぼ》を掠奪《りゃくだつ》した。爾の父は不弥の霊床《たまどこ》に火を放った。彼を殺せ。」
宿禰の茨《いばら》の根で作った杖《つえ》は若者の方へ差し向けられた。忽《たちま》ち、使部《しぶ》たちの剣は輝いた。若者は突っ立ち上ると、掴《つか》んだ粟を真先に肉迫する使部の面部へ投げつけた。剣を抜いた。と見る間に、使部の片手は剣を握ったまま胴を放れて酒の中へ落ち込んだ。使部たちは立ち停った。若者は飛《と》び退
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