と、それにひきかえて、珊瑚色《さんごいろ》の鹿の小山が新しく晴れ渡った空の中に高まってきた。手の休まった兵士たちは、血の流れた草の上で角力《すもう》をとった。神庫《ほくら》の裏の篠屋《しのや》では、狩猟を終った饗宴《きょうえん》の準備のために、速成の鹿の漬物《つけもの》が作られていた。兵士たちは広場から運んだ裸体の鹿を、地中に埋まった大甕《おおがめ》の中へ塩塊《えんかい》と一緒に投げ込むと彼らはその上で枯葉を焚《た》いた。その横では、不足な酒を作るがために、兵士たちは森から摘《つ》みとってきた黒松葉を圧搾《あっさく》して汁を作っていた。ここでは、その仕事の効果が最も直接に彼ら自身の口を喜ばすがために、歌う彼らの声も、いずれの仲間たちの歌より一段と威勢があった。
反絵は時々戸の隙間から中を覗《のぞ》いた。薄暗い部屋の中からは、一条の寝息が絶えず幽《かす》かに聞えていた。彼は顔を顰《しか》めて部屋の前を往《ゆ》き来《き》した。しかし、兵士たちの広場でさざめく声が一層|賑《にぎ》わしくなってくると、彼は高い欄干《らんかん》から飛び下りてその方へ馳《か》けて行った。今や麻の草場の中では、角力の一団が最も人々を集めていた。反絵は彼らの中へ割り込むと今まで勝ち続けていた一人の兵士の前に突きたった。
「来《きた》れ。」と彼は叫んでその兵士の股《また》へ片手をかけた。兵士の体躯は、反絵の胸の上で足を跳ねながら浮き上った。と、反絵は彼の身体を倒れた草の上へ投げて大手を上げた。
「我を倒した者に剣をやろう。来れ。」
その時反絵の眼には、白鷺《しらさぎ》の羽根束を擁《かか》えた反耶《はんや》の二人の使部《しぶ》が、積まれた裸体の鹿の間を通って卑弥呼の部屋の方へ歩いて行くのが見えた。反絵の拡げた両手は、だんだんと下へ下った。
「よし、我は爾《なんじ》に勝とう。」と一人がいった。それは反絵に倒された兵士の真油《まゆ》であった。彼は立ち上ると、血のついた角髪《みずら》で反絵の腹をめがけて突進した。
「放せ、放せ。」と反絵はいった。が、彼の身体は曲った真油の背の上で舟のように反《そ》っていた。と、次の瞬間、彼は踏《ふ》み蹂《にじ》られた草の緑が眼につくと、反耶に微笑《ほほえ》む不弥《うみ》の女の顔を浮べて逆様《さかさま》に墜落《ついらく》した。
「我に剣を与えよ。我は勝った、我は爾に勝った。」
ひとり空の中で喜ぶ真油の顔が高く笑った。反絵は怒りのバネに跳ね起されると、波立つ真油の腹を蹴り上げた。真油は叫びを上げて顛倒《てんとう》した。それと同時に、反絵は卑弥呼の部屋の方を振り返ると、遣戸《やりど》の中へ消えようとしている使部の黄色い背中が、動揺《どよ》めく兵士たちの頭の上から見えていた。
「真油は死んだ。」
「真油は蹴られた。」
「真油の腹は破れている。」
広場では兵士たちの歌がやまった。あちらこちらの草叢《くさむら》の中から兵士たちは動かぬ真油を中心に馳け寄って来た。しかし、反絵は彼らとは反対に広場の外へ、鹿の死体を飛び越え、馳け寄る兵士たちを突き飛ばし、麻の葉叢の中を一文字に使部たちの方へ突進した。
遣戸の中では、卑弥呼の眠りに気使いながら、二人の使部は、白鷺の尾羽根を周囲の壁となった円木《まろき》の隙に刺していた。
反絵は部屋の中へ飛び込むと、一人の使部の首を攫《つか》んで床の上へ投げつけた。使部の腕からはかかえた白鷺の尾羽根が飛び散った。
「我を赦《ゆる》せ。王は部屋を飾れとわれに命じた。」転りながら叫ぶ使部の上で、白鷺の羽毛が、叩かれた花園の花瓣のようにひらひらと舞っていた。反絵は拳《こぶし》を振りながら使部の腰を蹴って叫んだ。
「部屋を出よ、部屋を出よ、部屋を出よ。」
二人の使部は直ちに遣戸の方へ逃げ出した。その時彼らに代って、両手に竜胆《りんどう》と萩《はぎ》とをかかえた他の二人の使部が這入《はい》って来た。反絵は二人の傍へ近寄った。そうして、その一人の腕から萩の一束を奪い取ると、彼の額《ひたい》を打ち続けてまた叫んだ。
「部屋を出よ、部屋を出よ、部屋を出よ。」
「大兄《おおえ》、我は王の言葉に従った。」
「去れ。」
「大兄、我は王のために鞭打《むちう》たれるであろう。」
「行け。」
二人の使部は出て行った。が、彼らに続いてまた直ぐに二人の使部が、鹿の角を肩に背負って這入って来た。反絵は散乱した羽毛と萩の花の中に突き立って卑弥呼の寝顔を眺めていた。彼は物音を聞きつけて振り返ると、床へ投げ出された鹿の角の一枝を、肩にひっかけたまま逃げる使部の姿が、遣戸の方へ馳けて行くのが眼についた。反絵は捨てられた白鷺の尾羽根と竜胆の花束とを拾うと使部たちに代って円木の隙に刺していった。彼は時々手を休めて卑弥呼の顔を眺めてみた。しかし、その度《
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