たび》に、細く眼を見開いて彼の後姿を眺めていた卑弥呼の瞼《まぶた》は、再び眠りのさまを装《よそお》った。
「不弥の女。」と反絵はその野蛮な顔に媚びの微笑を浮べて彼女を呼んだ。
「不弥の女。見よ、我は爾の部屋を飾っている。不弥の女。起きよ。我は爾の部屋を飾っている。」
 卑弥呼の眠りは続いていた。そうして、反絵のとり残された媚の微笑は、ひとりだんだんと淋しい影の中へ消えていった。彼は卑弥呼の頭の傍へ近寄って片膝つくと、両手で彼女の蒼白《あおじろ》い頬《ほお》を撫《なで》てみた。彼の胸は迫る呼吸のために次第に波動を高めて来ると彼の手にたかっていた一片の萩の花瓣も、手の甲と一緒に彼女の頬の上で慄《ふる》えていた。
「不弥の女。不弥の女。」と彼は叫んだ。が、彼の胸の高まりは突然に性の衝動となって変化した。彼の赤い唇はひらいて来た。彼の片眼は蒼《あお》みを帯びて光って来た。そうして、彼女の頬を撫でていた両手が動きとまると、彼の体躯《たいく》は漸次に卑弥呼の胸の方へ延びて来た。しかし、その時、怨恨を含んだ歯を現して、鹿の毛皮から彼の方を眺めている訶和郎《かわろ》の死体の顔が眼についた。反絵の慾情に燃えた片眼は、忽ち恐怖の光を発して拡がった。が、次の瞬間、挑《いど》みかかる激情の光に急変すると、彼は立ち上って訶和郎の死体を毛皮のままに抱きかかえた。彼は荒々しく遣戸の外へ出ていった。そうして、広場を横切り、森を斜めに切って、急に開けた断崖の傍まで来ると、抱えた訶和郎の死体をその上から投げ込んだ。訶和郎の死体は、眼下に潜んだ縹緲《ひょうびょう》とした森林の波頭の上で、数回の大円を描きながら、太陽の光にきらきらと輝きつつ沈黙した緑の中へ落下した。

       二十一

 夜が深まると、再び濃霧が森林や谷間から狩猟の後の饗宴に浮れている耶馬台《やまと》の宮へ押し寄せて来た。場庭《ばにわ》の草園では、霧の中で焚火《たきび》が火の子を爆《はじ》いて燃えていた。その周囲で宮の婦女たちは、赤と虎斑《とらふ》に染った衣を巻いて、若い男に囲まれながら踊っていた。踊り疲れた若者たちは、なおも歌いながら草叢《くさむら》の中に並んだ酒甕《みわ》の傍へ集って来た。彼らの中の或者たちは、それぞれ自分の愛する女の手をとって、焚火の光りのとどかぬ森の中へ消えていった。王の反耶《はんや》は大夫《だいぶ》たちの歓
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