を与えにここへ来た。爾は帰れ。」と大兄はいって再び空の月へ眼を向けた。
 卑弥呼は黙って草玉の実をしごき取ると大兄の横顔へ投げつけた。大兄は笑いながら急に卑弥呼の方へ振り向いた。そうして、彼女の肩へ両手をかけて抱き寄せようとすると、彼女は大兄の胸を突いて身を放した。
「我は帰るであろう。我は爾に玉を与えた。我は帰るであろう。」
「よし、爾は帰れ、爾は帰れ。」と、大兄はいいながら、彼女の振り放そうとする両手を持った。そうして、彼女を引き寄せた。
「放せ、放せ。」
「帰れ、帰れ。」
 大兄は藻掻《もが》く卑弥呼を横に軽々と抱き上げると、どっと草玉の中へ身を落した。さらさらと揺《ゆら》めいた草玉は、その実《み》を擦《す》って二人の上で鳴っていた。
「卑弥呼、見よ、爾は彼方《かなた》の月のように美《うるわ》しい。」
 彼女は大兄の腕の中に抱かれたまま、今は静《しずか》に眼を瞑《と》じて彼の胸の上へ頬《ほお》をつけた。
「卑弥呼、もし爾が我の子を産めば姫を産め。我は爾のごとき姫を欲する。もし爾が彦《ひこ》を産めば、我のごとき彦を産め。我は爾を愛している。爾は我を愛するか。」
 しかし、卑弥呼は大兄を見上げて黙ったまま片手で彼の頬を撫《な》でていた。
「ああ、爾は月のように黙っている。冷たき月は欠けるであろう。爾は帰れ。」
 大兄は卑弥呼を揺って睥《にら》まえた。が彼女は微笑しながら静に大兄の顔を見上て黙っていた。
「帰れ、帰れ。」
と大兄はいいつつ彼女を抱いた両腕に力を籠《こ》めた。卑弥呼は大兄の首へ手を巻いた。そうして、二人は黙っていた。月は青い光りを二人の上に投げながら、彼方の森からだんだん高く昇っていった。そのとき、一人の痩《や》せた若者が、生薑《しょうが》を噛みつつ木※[#「木+患」、第3水準1−86−5]樹《もくろじゅ》の下へ現れた。彼は破れた軽い麻鞋《おぐつ》を、水に浸った俵《たわら》のように重々しく運びながら、次第に草玉の茂みの方へ近か寄って来た。卑狗《ひこ》の大兄は足音を聞くと立ち上った。
「爾は誰か?」
 若者は立停ると、生薑を投げ捨てた手で剣《つるぎ》の頭椎《かぶつち》を握って黙っていた。
「爾は誰か。」と再び大兄はいった。
「我は路に迷える者。」
「爾は何処《いずこ》の者か。」
「我は旅の者、我に糧《かて》を与えよ。我は爾に剣と勾玉とを与えるであろう。」
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