大兄の哄笑《こうしょう》は忍竹《しのぶ》を連ねた瑞籬《みずがき》の横で起ると、夕闇《ゆうやみ》の微風に揺れている柏《かしわ》の※[#「木+長」、第4水準2−14−94]《ほこだち》の傍まで続いていった。卑弥呼は染衣《しめごろも》の袖《そで》を噛《か》みながら、遠く松の茂みの中へ消えて行く大兄の姿を見詰めていた。

       二

 夜は暗かった。卑弥呼は鹿の毛皮に身を包んで宮殿からぬけ出ると、高倉の藁戸《わらど》に添って大兄を待った。栗鼠《りす》は頭の上で、栗の梢《こずえ》の枝を撓《たわ》めて音を立てた。
「大兄。」
 野兎《のうさぎ》は※[#「くさかんむり/冏」、182−14]麻《いちび》の茂みの中で、昼に狙《ねら》われた青鷹《あおたか》の夢を見た。そうして、飛《と》び跳《は》ねると※[#「くさかんむり/冏」、182−14]麻の幹に突きあたりながら、零余子《むかご》の葉叢《はむら》の中に馳《か》け込《こ》んだ。
「大兄。」
 梟《ふくろう》は木※[#「木+患」、第3水準1−86−5]樹《もくろじゅ》の梢を降りて来た。そして、嫁菜《よめな》を踏みながら群《むらが》る※[#「くさかんむり/意」、第3水準1−91−30]苡《くさだま》の下を潜《くぐ》って青蛙《あおがえる》に飛びついた。
「大兄。」
 しかし、卑狗の大兄はまだ来なかった。卑弥呼は藁戸の下へ蹲踞《うずくま》ると、ひとり菘《すずな》を引いては投げ引いては投げた。月は高倉の千木《ちぎ》を浮かべて現れた。森の柏の静まった葉波は一斉に濡れた銀の鱗《うろこ》のように輝き出した。そのとき、軽い口笛が草玉の茂みの上から聞えて来た。卑弥呼は藁戸から身を起すと、草玉の穂波の上に半身を浮かべて立っている卑狗の大兄の方へ歩いていった。
「大兄、大兄。」彼女は鹿の毛皮を後《うし》ろに跳ねて彼の方へ近か寄った。「夜は間もなく明けるであろう。」
 しかし、大兄は輝く月から眼を放さずに立っていた。
「大兄よ、我は管玉を持って来た。爾は受けよ。」と卑弥呼はいって管玉を大兄の前に差し出した。
「爾は何故《なにゆえ》にここへ来た? 我はひとり月を眺めにここへ来た。」
「我は爾に玉を与えにここへ来た。受けよ、我は玉を与えると爾にいった。」
 大兄は卑弥呼の管玉を攫《つか》んでとった。
「我は爾に逢《あ》わんがためにここへ来た。爾は我に玉
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