の群から放れて、ひとり山腹へ引き返して来た武将があった。それはかの君長《ひとこのかみ》の弟の反絵であった。彼は芒《すすき》の中に立《た》ち停《どま》ると、片眼で山上に揺られている一本の蜜柑の枝を狙《ねら》って矢を引いた。蜜柑の枝は、一段と闇の中で激しく揺れた。訶和郎の首は、猟人の獲物《えもの》のように矢の刺った胸の上へ垂れ下った。間もなく、濃霧は松明の光りをその中にぼかしながら、倒れた芒の原の上から静にだんだんと訶和郎の周囲へ流れて来た。

       十五

 耶馬台《やまと》の兵士《つわもの》たちが彼らの宮へ帰ったとき、卑弥呼《ひみこ》はひとり捕虜の宿舎にあてられる石窖《いしぐら》の中に入れられた。それは幸運な他国の旅人に与えられる耶馬台の国の習慣の一つであった。彼女の石窖は奥深い石灰洞から成っていた。数本の鍾乳石《しょうにゅうせき》の柱は、襞打《ひだう》つ高い天井の岩壁から下っていた。そうして、僅《わず》かに開けられた正方形の石の入口には、太い欅《けやき》の格子《こうし》が降《おろ》され、その前には、背中と胸とに無数の細い蜥蜴《とかげ》の絵でもって、大きな一つの蜥蜴を刺青《ほりもの》した一人の奴隷がつけられていた。彼の頭は嫁菜《よめな》の汁で染められた藍色《あいいろ》の苧《からむし》の布《きれ》を巻きつけ、腰には継ぎ合した鼬《いたち》の皮が纏《まと》われていた。
 卑弥呼は兵士たちに押し込められたまま乾草の上へ顔を伏せて倒れていた。夜は更《ふ》けた。兵士たちのさざめく声は、彼らの疲労と睡《ねむ》けのために耶馬台の宮から鎮《しず》まった。そうして、森からは霧を透《とお》して梟《ふくろう》と狐の声が石窖の中へ聞えて来た。かつて、卑弥呼が森の中で卑狗《ひこ》の大兄《おおえ》の腕に抱かれて梟の声を真似《まね》たのは、過ぎた平和な日の一夜であった。かつて、彼女が訶和郎《かわろ》の腕の中で狐の声を聞いたのは、過ぎた数日前の夜であった。
「ああ、訶和郎よ、もし我が爾《なんじ》に従って不弥《うみ》へ廻れば、我は今爾とともにいるのであろう。ああ、訶和郎よ、我を赦《ゆる》せ。我は卑狗を愛している。爾は我のために傷ついた。」
 卑弥呼は頭を上げて格子の外を見た。外では、弓を首によせかけた奴隷が、消えかかった篝火《かがりび》の傍で乾草の上に両手をついて、石窖の中を覗《のぞ》いていた
前へ 次へ
全58ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング