ったまま、その落ち窪んだ眼を光らせて卑弥呼の去った戸の外を見つめていた。
「旅の者よ。」と、膳夫の声が横でした。
若者は膳夫の顔へ眼を向けた。そうして、彼の指差している下を見た。そこには、海水を湛《たた》えた※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1−88−72]《もい》の中に海螺《つび》と山蛤《やまがえる》が浸してあった。
「かの女《おんな》は何者か。」
「この宮の姫、卑弥呼という。」
膳夫は彼の傍から隣室の方へ下がっていった。やがて、数種の行器《ほかい》が若者の前に運ばれた。その中には、野老《ところ》と蘿蔔《すずしろ》と朱実《あけみ》と粟とがはいっていた。※[#「木+怱」、第3水準1−85−87]《たら》の木の心から製した※[#「酉+璃のつくり」、第4水準2−90−40]《もそろ》の酒は、その傍の酒瓮《みわ》の中で、薫《かん》ばしい香気を立ててまだ波々と揺《ゆら》いでいた。若者は片手で粟を摘《つま》むと、「卑弥呼。」と一言呟いた。
そのとき、君長《ひとこのかみ》の面前から下がって来た一人の宿禰《すくね》が、八尋殿《やつひろでん》を通って贄殿の方へ来た。彼は痼疾《こしつ》の中風症に震える老躯《ろうく》を数人の使部《しぶ》に護《まも》られて、若者の傍まで来ると立ち停った。
「爾は何処の者か。」
宿禰の垂れ下った白い眉毛《まゆげ》は、若者を見詰めている眼の上で慄《ふる》えていた。
「我は路に迷える旅の者。」
「爾の額《ひたい》の刺青《ほりもの》は※[#「王+夬」、第3水準1−87−87]《けつ》である。爾は奴国《なこく》の者であろう。」
「否《いや》。」
「爾の顎《あご》の刺青は月である。爾は奴国の貴族であろう。」
「否。」
「爾の唇の刺青は蔓《つる》である。爾は奴国の王子であろう。」
「否、我は路に迷える旅の者。」
「やめよ。爾の祖父は不弥《うみ》の王母《おうぼ》を掠奪《りゃくだつ》した。爾の父は不弥の霊床《たまどこ》に火を放った。彼を殺せ。」
宿禰の茨《いばら》の根で作った杖《つえ》は若者の方へ差し向けられた。忽《たちま》ち、使部《しぶ》たちの剣は輝いた。若者は突っ立ち上ると、掴《つか》んだ粟を真先に肉迫する使部の面部へ投げつけた。剣を抜いた。と見る間に、使部の片手は剣を握ったまま胴を放れて酒の中へ落ち込んだ。使部たちは立ち停った。若者は飛《と》び退
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