出した。だが、群衆の頭は依然として動かなかつた。そのとき、彼らの中に全身の感覚を張り詰めさせて今迄の様子を眺めてゐた肥大な一人の紳士が混つてゐた。彼の腹は巨万の富と一世の自信とを抱蔵してゐるかのごとく素晴らしく大きく前に突き出てゐて、一条の金の鎖が腹の下から祭壇の幢幡のやうに光つてゐた。
 彼はその不可思議な魅力を持つた腹を揺り動かしながら群衆の前へ出た。さうして彼は切符を卓子の上へ差し出しながらにやにや無気味な薄笑ひを洩して云つた。
「これや、こつちの方が人気があるわい。」
 すると、今迄静つてゐた群衆の頭は、俄に卓子をめがけて旋風のやうに揺らぎ出した。卓子が傾いた。「押すな! 押すな!」無数の腕が曲つた林のやうに。尽くの頭は太つた腹に巻き込まれて盛り上つた。
 軈て、迂廻線へ戻る列車の到着したのはそれから間もなくのことであつた。群衆はその新しい列車の中へ殺到した。満載された人の頭が太つた腹を包んで発車した。跡には、踏み蹂じられた果実の皮が。風は野の中から寒駅の柱をそよそよとかすめてゐた。
 すると、空虚になつて停つてゐる急行列車の窓からひよつこりと鉢巻頭が現れた。それは一人取り残されたかの子僧であつた。彼はいつの間にか静まり返つて閑々としてゐるプラツトを見ると、
「おッ。」と云つた。
 しかし、彼は直ぐまた頭を振り出した。
 「汽車は、
  出るでん出るえ、
  煙は、のん残るえ、
  残る煙は
  しやん癪の種
  癪の種。」
 歌は瓢々として続いて行つた。振られる鉢巻の下では、白と黒との眼玉が振り子のやうに。
 それから暫くしたときであつた。一人の駅員が線路を飛び越えて最初の確実な報告を齎した。
「皆さん、H、K間の土砂崩壊の故障線は開通いたしました。皆さん、H、K間の……」
 しかし、乗客の頭はただ一つ鉢巻の頭であつた。しかし、急行列車は烏合の乗合馬車のやうに停車してゐることは出来なかつた。車掌の笛は鳴り響いた。列車は目的地へ向つて空虚のまま全速力で馳け出した。
 子僧は? 意気揚々と窓枠を叩きながら。一人白と黒との眼玉を振り子のやうに振りながら。
 「ア――
  梅よ、
  桜よ、
  牡丹よ、
  桃よ、
  さうは
  一人で
  持ち切れぬ
  ヨイヨイ。」



底本:「定本横光利一全集 第一巻」河出書房新社
   1981(昭和56)年6月30日初版発行
底本の親本:「無禮な街」文藝日本社
   1924(大正13)年5月20日発行
初出:「文藝時代」
   1924(大正13)年10月1日発行、第1巻第1号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
2001年12月10日公開
2003年6月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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