頭ならびに腹
横光利一


 真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。
 とにかく、かう云ふ現象の中で、その詰み込まれた列車の乗客中に一人の横着さうな子僧が混つてゐた。彼はいかにも一人前の顔をして一席を占めると、手拭で鉢巻をし始めた。それから、窓枠を両手で叩きながら大声で唄ひ出した。
 「うちの嬶ア
  福ぢやア
  ヨイヨイ、
  福は福ぢやが、
  お多福ぢや
  ヨイヨイ。」
 人々は笑ひ出した。しかし、彼の歌ふ様子には周囲の人々の顔色には少しも頓着せぬ熱心さが大胆不敵に籠つてゐた。
 「寒い寒いと
  云たとて寒い。
  何が寒かろ。
  やれ寒い。
  ヨイヨイ。」
 彼は頭を振り出した。声はだんだんと大きくなつた。彼のその意気込みから察すると、恐らく目的地まで到着するその間に、自分の知つてゐる限りの唄を唄ひ尽さうとしてゐるかのやうであつた。歌は次ぎ次ぎにと彼の口から休みなく変へられていつた。やがて、周囲の人々は今は早やその傍若無人な子僧の歌を誰も相手にしなくなつて来た。さうして、車内は再びどこも退窟と眠気のために疲れていつた。
 そのとき、突然列車は停車した。暫く車内の人々は黙つてゐた。と、俄に彼等は騒ぎ立つた。
「どうした!」
「何んだ!」
「何処だ!」
「衝突か!」
 人々の手から新聞紙が滑り落ちた。無数の頭が位置を乱して動揺めき出した。
「どこだ!」
「何んだ!」
「どこだ!」
 動かぬ列車の横腹には、野の中に名も知れぬ寒駅がぼんやりと横たはつてゐた。勿論、其処は止るべからざる所である。暫くすると一人の車掌が各車の口に現れた。
「皆さん、此の列車はもうここより進みません。」
 人々は息を抜かれたやうに黙つてゐた。
「H、K間の線路に故障が起りました。」
「車掌!」
「どうしたツ。」
「皆さん、この列車はもうここより進みません。」
「金を返せツ。」
「H、K間の線路に故障が起りました。」
「通過はいつだ?」
「皆さん、此の列車はもうここより進みません。」
 車掌は人形のやうに各室を平然として通り抜けた。人々は車掌を送つてプラツトホームへ溢れ出た。彼等は駅員の姿と見ると、忽ちそれを巻き包んで押し襲せた。数箇の集団が声をあげてあちらこちらに渦巻いた。しかし、駅員らの誰もが、彼らの続出する質問に一人として答へ得るものがなかつた。ただ彼らの答へはかうであつた。
「電線さへ不通です。」
 一切が不明であつた。そこで、彼ら集団の最後の不平はいかに一切が不明であるとは云へ、故障線の恢復する可き時間の予測さへ推断し得ぬと云ふ道断さは不埒である、と迫り出した。けれ共一切は不明であつた。いかんともすることが出来なかつた。従つて、一切の者は不運であつた。さうして、この運命観が宙に迷つた人々の頭の中を流れ出すと、彼等集団は初めて波のやうに崩れ出した。喧騒は呟きとなつた。苦笑となつた。間もなく彼らは呆然となつて了つた。しかし、彼らの賃金の返済されるのは定つてゐた。畢竟彼らの一様に受ける損失は半日の空費であつた。尚ほ引き返す半日を合せて一日の空費となつた。そこで、此の方針を失つた集団の各自とる可き方法は、時間と金銭との目算の上自然三つに分かれねばならなかつた。一つはその当地で宿泊するか、一つはその車内で開通を待つか、他は出発点へ引き返すべきかいづれであるか。やがて、荷物は各車の入口から降ろされ出した。人波はプラツトから野の中へ拡り出した。動かぬ者は酒を飲んだ。菓子を食べた。女達はただ人々の顔色をぼんやりと眺めてゐた。
 所がかの子僧の歌は、空虚になつた列車の中からまたまた勢ひ好く聞え出した。
 「何んぢや
  此の野郎
  柳の毛虫
  払ひ落せば
  またたかる、
  チヨイチヨイ。」
 彼はその眼前の椿事は物ともせず、恰も窓から覗いた空の雲の塊りに噛みつくやうに、口をぱくぱくやりながら。その時である。崩れ出した人波の中へ大きな一つの卓子が運ばれた。そこで三人の駅員は次のやうな報告をし始めた。
「皆さん。お急ぎの方はここへ切符をお出し下さい。S駅まで引き返す列車が参ります。お急ぎのお方はその列車でS駅からT線を迂廻して下さい。」
 さて、切符を出すものは? 群衆は鳴りをひそめて互に人々の顔を窺ひ出した。何ぜなら、故障線の列車はいつ動き出すか分らなかつた。従つて迂廻線の列車とどちらが早く目的地に到着するか分らなかつた。
  さて?
  さて?
  さて?
 一人の乗客は切符を持つて卓子の前へ動き出した。駅員はその男の切符に検印を済ますと更に群衆の顔を見た。が、卓子を巻き包んでそれを見守つてゐる群衆の頭は動かなかつた。
  さて?
  さて?
  さて?
 暫くすると、また一人じくじくと動き
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