《こ》える肉体《にくたい》、地《ち》を蹴《け》る刹那《せつな》、雲《くも》の上《うえ》の感覚《かんかく》、私《わたし》はもう今《いま》まさに飛《と》ぼうとしている鷲《わし》のように空《そら》を見上《みあ》げながら飛行場《ひこうじょう》へ自動車《じどうしゃ》を駈《か》けさせた。――さてそのときになっていよいよ野《の》の中《なか》で廻《まわ》っているプロペラの音《おと》を聞《き》き出《だ》すと、私《わたし》はリカ子《こ》に耳《みみ》へ綿《わた》を込《こ》ませ、良《よ》いかと訊《き》いた。良《よ》いと答《こた》える。二人《ふたり》は機体《きたい》の中《なか》の傾《かたむ》いた席《せき》に並《なら》んで腰《こし》を降《お》ろした。飛行場《ひこうじょう》の黒《くろ》い人々《ひとびと》は私達《わたしたち》二人《ふたり》の最後《さいご》の姿《すがた》を見《み》るかのように、まだ開《あ》いているドアの口《くち》から中《なか》を覗《のぞ》き込《こ》んだ。私《わたし》は一|刻《こく》も早《はや》くこの地《ち》を離《はな》れたくてならない。過去《かこ》へ向《むか》って手袋《てぶくろ》を投《な》げつけたい。長《なが》い間《あいだ》の萎《しな》びた過去《かこ》に。すると、いきなりドアが閉《し》まった。もう良《よ》い、さらばだ。機体《きたい》が滑走《かっそう》を始《はじ》め出《だ》した。私《わたし》は足《あし》のような車輪《しゃりん》の円弧《えんこ》が地《ち》を蹴《け》る刹那《せつな》を今《いま》か今《いま》かと待《ま》ち構《かま》えた。と私《わたし》の身体《からだ》に、羽根《はね》が生《は》えた。車輪《しゃりん》が空間《くうかん》で廻《ま》い停《とま》った。見《み》る間《ま》に森《もり》が縮《ちぢ》み出《だ》した。家《いえ》が落《お》ち込《こ》んだ。畑《はたけ》が波《なみ》のように足《あし》の裏《うら》で浮《う》き始《はじ》めた。私《わたし》は鳥《とり》になったのだ。鳥《とり》に。私《わたし》の羽根《はね》は山《やま》を叩《たた》く。羽根《はね》の下《した》から潰《つぶ》れた半島《はんとう》が現《あら》われる。乾《かわ》いた街《まち》が皮膚病《ひふびょう》のように竦《すく》み出《だ》す。私《わたし》は過去《かこ》をどこへ落《おと》して来《き》たのであろう。雲《くも》と雲《くも》との中《なか》で扇《おうぎ》のように廻《まわ》っている光《ひか》りばかり[#「ばかり」は底本では「かばり」]を追《お》っ駈《か》けながら、私《わたし》は浮《う》き続《つづ》けているのである。今《いま》や私《わたし》には生活《せいかつ》はどこにもない。心《こころ》は光線《こうせん》のように地上《ちじょう》を蹂躙《じゅうりん》しているだけだ。直《ま》っ二ツに割《わ》れていく時間《じかん》の底《そこ》から見《み》えるのは、墓場《はかば》ばかりだ。太古《たいこ》が私《わたし》の周囲《しゅうい》を取《と》り包《つつ》んで眠《ねむ》り出《だ》した。夢《ゆめ》と夢《ゆめ》とが大海《たいかい》のように拡《ひろ》がってはまた拡《ひろ》がる。私《わたし》はその行衛《ゆくえ》を見守《みまも》りながらいつの間《ま》にか砕《くだ》けてしまう。ふと私《わたし》は横《よこ》にいるリカ子《こ》を見《み》ると、自分《じぶん》の位置《いち》を取《と》り戻《もど》した。しかしリカ子《こ》は――この半島《はんとう》とも匹敵《ひってき》すべき巨大《きょだい》な怪物《かいぶつ》は何物《なにもの》であろう。――私《わたし》は彼女《かのじょ》の身体《からだ》に触《さわ》ってみた。すると、私《わたし》の指先《ゆびさき》は地上《ちじょう》からつながっているただ一|本《ぽん》の線《せん》のように長《なが》い間《あいだ》全《まった》く忘《わす》れていた地上《ちじょう》の習慣《しゅうかん》や匂《にお》いや温度《おんど》を私《わたし》の体内《たいない》へ送《おく》って来《き》た。だが、それは隙間《すきま》から吹《ふ》き込《こ》む鋭《するど》い風《かぜ》のように、今《いま》はただ私《わたし》の胸《むね》を新鮮《しんせん》にするだけだった。私《わたし》はリカ子《こ》を抱《だ》き寄《よ》せると、紙《かみ》の上《うえ》へ「結婚《けっこん》」と書《か》いた。するとリカ子《こ》はその横《よこ》へ「有《あ》り難《がと》う」と書《か》き添《そ》えた。二人《ふたり》は新《あたら》しい夫婦《ふうふ》の生活《せいかつ》の第《だい》一|歩《ぽ》を雲《くも》の真中《まんなか》に置《お》いた。微細《びさい》な水粒《みずつぶ》が翼《つばさ》の裏《うら》へ溜《たま》ってはぶるぶる慄《ふる》えながら腋《わき》の下《した》へ流《なが》れていった。翼《つばさ》を支《ささ》えた
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