ところの種族を黙殺して、何の知性が種族の知性となるのであろうか。梶はこう思う。
「自分がこのように棲息《せいそく》している種族の知性を論理の国際性より重んじるところは、自分が種族の国際性を愛するからだ」と。
全く今まで梶の一番混乱を起した抽象的な場所はここであった。またこれは梶一個人の混乱の場所だけではなく、日本の知識階級全部の混乱の源をなしている奇奇怪怪の場所でもあった。一度《ひとた》び問題がここに触れようものなら知識階級は総立ちになって喧騒《けんそう》を極《きわ》めるのだ。今やまた梶が帰ってみればヒューマニズムの論議が沸き立ち上っている最中であったが、これも仔細《しさい》に眺めていると、種族の知性と論理の国際性との分別し難い暗黒面から立ち昇っている濛濛《もうもう》とした煙であった。
すべての知識階級の者たちは、頭の中にそれぞれこの暗い穴を開けられたまま歩いていた。歩く彼らの足つきや方角を見ていると、誰も彼も勝手の悪そうな顔をして煙っている他人の火元を見合いながら慰め合うのである。中には無闇矢鱈《むやみやたら》と国際性という刀を振り廻して斬《き》りつけてばかりいるのもあった。このような人人は覆面をして荒れ廻っている者に多かったが、面の中からも煙はぶすぶす立ち昇っているので、背中の後ろの捻《ね》じ廻しがどこ製のものだかすぐ人人には分るのであった。
東北の海岸の温泉場には人の気配はもうなかった。梶は波頭の長く連り襲って来る海を前にした宿の部屋で、背後の水の滴《したた》る岩山の方に向いて坐り、終日そこから動かなかった。驟雨《しゅうう》がときどき岩庭に降り込んだ。彼は泉石の間から端正な真鯉《まごい》の躍《おど》り上るのを眼にしながら何をするでもなかった。このようなとき、四つの子供が村の子供たちに引っ掻《か》かれて泣きながら彼の部屋へ這入《はい》って来て、黙っている父を見ると棒切れを拾い上げ、
「よし、殴《なぐ》って来てやろ」
と云ってまた馳け出すのを見ると、梶はこ奴《いつ》は日本人だと思ってひそかに喜んだ。梶の留守の間初めて村|住居《ずまい》をすることになったこの子供が、ある日村の大きな学校通いの子供たちから取り包まれ、皆から石を持って迫られても逃げないでじっとしていた話を芳江から聞かされると、梶はまたそれも喜んだ。彼はこのような子供が今日本に充満していて、年年歳歳それぞれ成長しつつあるところを考えると、これらの子供が何をやり出すか計り知れぬ興味を覚えた。梶はヨーロッパにいるとき、自分の子供と同じ年齢の子を見ると近づいて公園などで遊んでみたが、特に日本の子供がヨーロッパの子供たちから劣っているとは思えなかった。それぞれこの両洋の子供たちは、各自の国の知性をたどってそのレールの上を成長していくだけの相違であった。梶はここに暗黙のうちに敷かれたレールの両極は一致すべきものと信じていたが、今のところ、いかなる国際列車もまだ乗り換え場所が幾つも必要だと思わざるを得なかった。梶は国際列車のレールは各国共通に一本のものであるべき筈《はず》だから、列車は乗り換える必要がないと教える学者たちには賛成出来なかった。殊に汽車には国国によって時間の相違があり、山川の相違によってレールに広軌と狭軌の差が明らかに存しているにも拘らず、レールの鉄材も日本製を使用すべからずと教えるものや、時間表まで各国同一の時間にすべしと主張する一派を見ると、ひどく暢気《のんき》な隠居のように見えるのだった。
ある日、梶は自分のいる温泉場を中心とした地方のレールの敷き方を検《しら》べてみた。一カ所を仔細《しさい》に見れば、そのレールは全国共通に通じた個所があるにちがいないと思ったからである。すると、意外なレールの素質が梶の眼の前に現れて来た。
その市は人口三万ほどある市である。周囲は米の産地として有名な地味|肥沃《ひよく》の庄内平野に包まれているので主産物は米であった。この市の領主はむかし徳川家と特殊に親密な関係があったから、維新の革命のときには領内の士族は当然徳川とともに滅亡すべき運命を持っていた。そこで領内の士族は立って朝廷と一戦を交える覚悟のおり、西郷隆盛がひそかにこの地へ乗り込んで来たのである。このとき家中に一人の傑物の家老があって、これが西郷と会談の結果ともに人格が相映じ、鉾《ほこ》を納めて無事家中を安泰ならしめた事実があった。しかし、このとき、謀叛《むほん》の証左を無くするため人知れず軍用金をある信用すべき商人の一人の手中に隠した。領主を中心とする士族の一団の生活費は、以来この商人の手中にあって今に至っているというのである。この噂《うわさ》はどこまで信用すべきものであるか誰にも分らない。どこまでも秘密から秘密へと落ち込んで消えていく筋合のものであった。しかし、領主をいまだに殿様と呼び、その前では平伏|叩頭《こうとう》する習慣を維持している士族一派を、市民たちは御家禄《ごかろく》派と呼び特殊階級として許していることは明らかな事実であった。この御家禄派の現在の生活費は、その一党からなる地方第一の倉庫の所有権から上って来ていた。倉庫は平野の大産物である米穀の保管が目的であって、保管倉庫の完備と人心の素朴さでこの地の米穀は全国第一の実質を備えていた。
しかし、ここに新しい別の倉庫が建ち起って来た。それは農民を主体とする産業組合の活動である。この組合は農民の手でなる米穀類の保管から売捌《うりさば》き交渉一切を引き受ける上に、金銭を貸し与えて肥料の供給までするのである。この便利な組織は自然に農民の心を引きよせるに充分であった。ところが、ここに困ったのは、その敵である御家禄派の衰微ではなく市の主要群団であるところの商人たちであった。農民たちの金銭がすべて産業組合の手中に落ちた結果は、市の商人の品物の売れなくなるのは当然である。たちまち商人の破産するものが続出して来た。梶の耳に這入って来た確かな検《しら》べによると、ほとんど商人の九割までが破産状態に瀕《ひん》しているということであった。しかし、さらに梶を驚かしたことは、その現象がこの地方のみならず日本全国に共通した農村都市の叫喚であるということだった。
梶は前からもそれは感じていたことであったが、それはこれほどまで深刻な変化をしているものとは思わなかった。政治季節になると、いつもの通り掲げられる米穀統制法という看板も、つまりは、地方の商人を破壊している産業組合の主態である農村を救えという声である。明らかに誰が見ても、農夫の作る米穀類をすでに存在している統一機関の手をもって統一し、仲介業者の手を無くすることの良い仕事であるのは分ったことだ。それにも拘《かかわ》らずこの統制法が、いまだに議会を通過しないという事実の裏には、商人団の中央機関の必死の破壊運動があるのだった。
農民を救うべきか商人を救うべきかという難問の前で、明答の出て来る筈はない。どちらも救えというためには、秩序組織の改革以外に良法はない。これは誰が考えたとて定ったことだ。現状維持を最も安全な思惑と考える筋合は、実は最も危険思想であるという奇怪な進行をなしつつ満員列車は馳けているのだった。ところが、梶のいるこの地方には、新しい機関の発生を待ち望んでいる群衆以外に、これはまた変った形態が残っていた。それは領主の家老が隆盛の言に従い、明治政府の掌中に実権を譲ったとき、一戦を覚悟の決死隊の一団である。彼らは自身たちの領主がすでに明治に降《くだ》ったと知ると、明治の飯を食わずと連袂《れんべい》して山間の僻地《へきち》に立て籠《こも》り、今なお一団となって共産村を造っていた。ここでは一団が山野を開拓して田畑となし、共同の養蚕所を持ち、学校をその一部にあてた堅実質素な生活を維持しつつ、絶対に他の容喙《ようかい》を入れない純然たる態度を守って世を睥睨《へいげい》していた。誰が見ても、まさに共産党以上の牢固《ろうこ》さと単純さとがここにあった。しかし、これさえ国家は保護している。義理人情という日本の知性のこの二つの形の純潔さに対して、ヨーロッパの知性のいかなる最高のものがこれを笑い得るであろうか。――
梶はこのように思いながら間もなく東京の自分の家へ帰って来た。
梶が東京の我が家へ初めて戻ったときは季節は寒さに向っていた。彼が帰って家の周囲を見渡すと今までの広い空地はどこにもなくなり、東西南北家がぎっしり建っていた。僅《わず》か半歳《はんとし》あまりにこのように人家の密集する都市の膨脹力《ぼうちょうりょく》を思うと、半歳の間の日本の変化も実はこれと同じにちがいないと梶は思って驚いた。家の掃除《そうじ》をさせている間、梶は久しぶりに一人市見物に出ていった。すると、あれほど大都会の中心を誇っていた銀座は全く低く汚《きたな》く見る影もなかった。
「これが銀座だったのか」
梶はしばらく街を見廻して立っていたが、寒そうに吹く風の中をモダンな姿で歩く人影も、どこの国の真似《まね》ともなく一種すすけた蕭条《しょうじょう》とした淋《さび》しさを湛《たた》えていた。梶は日本の文化は物の中側にある知的文化が特長だと常に思っていたが、しかし、外から見かけたこの貧寒さを取り除《の》けるためには、少なからざる虚栄心の濫費《らんぴ》をしなければ西欧に追っつけるものではなかった。内充して外に現れることが形式の本然であるならまだまだ日本の内側は火の車だと思った。
梶は友人をある会社に尋ねて今日から東京へいよいよ落ちつくことを報《しら》せにいった。この友人は幾つもの会社の重役をしていた上に関西の財界の大立物を親戚すじにひかえていたから、日本の財界の動きにかけては誰より確実な早耳を持っていた。重役室で梶は友人に逢うと、自分のいなかった間に変化して来た裏面の動きを訊《たず》ねてみた。
「そうだ。君のいない間にがらりと変ってしまったぞ。たいへんな事になってしまったよ。税制改革で年に百万円|儲《もう》けるものは五十万円の税だよ。それも累進率だから、儲かれば儲かるほど出すのも上るわけさ、相続税だって財産の三分の二以上とられるんだ。こうなると二百万円の財産だって、孫の代には一文もなくなってルンペンになり下るという寸法になって来る。百円の収入以上のものには、もう皆かかって来るんだ。君も考えないといけないぜ」
こういう友人の言を寝耳に水のごとく梶は聞いていた。
「それゃ、大革命が起ってるんじゃないか。まだ誰にも聞かなかったが本当か」
「誰が嘘を云うものか、まだ誰も気が附かんだけだよ。この二三日財界は大騒動だ。関西からは電報ばかりだが、誰もどうしていいか知らんのさ。こうなれば君、財産の隠しようがないからね。おまけに儲けたって仕様がないから今までの財界の玄人《くろうと》がみな尋常一年生になっちゃったんだ。現に新東が焦げつき相場でじっとしたままだよ。それが証拠じゃないか。上げも下げもならんのだよ。どうしていいんか分らないんだからね」
「しかし、それゃ、面白くなって来たね」
「面白いよ。僕の会社もこうなれば、機械に金をかけて良い品物を造るより仕様がなくなった。重役会議を昨日開いたんだが、僕はそれを主張したんだ。皆だい賛成だ。ボーナスもうんと出す。社員を遠足させたり、会をやって御馳走《ごちそう》して楽しませたりする方に、金をどんどん使うんだ。しかし、やりよったなア。大蔵省、とうとうやりやがった。豪《えら》いよ。もう金持連中、利子では食えなくなるからな。とにかく、ここ一週間どこの会社だって、それで重役会議ばかりだよ」
「議会はしかし通過するのかね」と梶もあまりの変化にまだ嘘のような気持ちだった。
「通過するさ。それゃもうちゃんと定《きま》ってるんだ。財界の大立物が重役をみなやめちゃったのもそれなんだよ。あ奴《いつ》らはそこがまた豪いとこなんだね。矢っ張りインテリの重役じゃなくちゃ駄目なんだよ。ヨーロッパはどうだね。近頃は」
「いや、そういう面白い話を聞いちゃ、ヨーロッパどころじゃないね。あっちの話
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