一回の大地震でそれまで営営と築いて来た文化は一朝にして潰れてしまうのです。すると、直《ただ》ちに国民は次ぎの文化の建設を行わねばならぬのですが、その度に日本は他の文化国の最も良い所を取り入れます。一世代の民衆の一度は誰でもこの自然の暴力に打ち負かされ他国の文化を継ぎたす訓練から生ずる国民の重層性は、他のどこの国にもない自然を何より重要視する秩序を心理の間に成長させて来たのです。そのため全国民の知力の全体は、外国のように自然を変形することに使用されずに、自然を利用することのみに向けられる習慣を養って来たのは当然です。このような習慣の中に今ヨーロッパの左翼の知性が侵入しつつあるのですが、しかし、これらの知性は日本とヨーロッパの左翼の闘争対象の相違について考えません。従って同一の思想の活動は、ヨーロッパの左翼の闘争が生活機構の変形方法であるときに、日本の左翼は日本独特であるところの秩序という自然に対する闘争の形となって現れてしまったのです。これはどうしたって絶対に負けるのは左翼です。つまり、それは自然に反するからなんです。ヨーロッパのはすでに自然に反したものを自然に返そうとする左翼であるのに対して、日本の左翼は自然に反そうとする運動です。日本に近ごろ二・二六事件という騒動の勃発《ぼっぱつ》したのはよく御存じのことと思いますが、あれは左翼の撲滅《ぼくめつ》運動でもなければ、資本主義の覆滅運動でもありません。ヨーロッパの植民地の圧迫が、日本の秩序にいま一重の複雑な秩序の要求を加えただけです」
 ツァラアは梶の友人の通訳を聞くとただ頷《うなず》いて黙っていただけだった。文化国が相接して生活しているヨーロッパ人には、東洋の端にある日本のことなど霞《かすみ》の棚曳《たなび》いた空のように、空漠《くうばく》としたブランクの映像のまま取り残されているのだと梶は思うと、その一隅から、世界の隅隅《すみずみ》に照明を与えて人人の眼光をくらましている日本の様が、孫悟空《そんごくう》のように電光石火の早業を雲間でしているに相違ないと思われた。
「シュールリアリズムは日本では成功していますか」とまた暫《しばら》くしてツァラアは訊《たず》ねた。
「日本ではシュールリアリズムは地震だけで結構ですから、繁昌《はんじょう》しません」
 こう梶は云いたかった。しかし、彼はただ駄目だと云っただけでその夜は友人と一緒に家へ帰って来た。

 フランスの全罷業が大波を打ち上げてようやく鎮まりかかったとき、スペインの動乱が火蓋《ひぶた》を切った。梶はヨーロッパが左右両翼に分れて喧喧囂囂《けんけんごうごう》としている中を無雑作にシベリアを突っ走り、日本へ帰るとすぐ東北地方へ引き込んだ。彼は妻の父と母とに「ただ今帰りました」とお辞儀をしてから早速仏壇の前へいって黙礼した。
「やれやれ」
 梶は浴衣《ゆかた》に着換えてから奥の十二畳の畳の上にひっくり返って庭を見た。日本人が血眼《ちまなこ》になって騒いで来たヨーロッパの文化があれだったのかと思うと、それまで妙に卑屈になっていた自分が優しく哀れに曇って見えて来るのだった。梶の組み上げていた片足の冷え冷えする指先の方で、妻の芳江は羞《はずか》しそうに顔を赧《あか》らめながら、
「お手紙|度度《たびたび》ありがとうございました」と礼をのべた。
「そんなに出したかね」
 芳江は返事に困ったような表情で黙っていた。梶は特に自分を愛妻家だとは思っていなかったが、外国で一人の女人の皮膚にも触れなかったのを思い浮べると、なるほどその点では愛妻家の中に入れられるところもあるかもしれないと思った。しかし、梶がヨーロッパの婦人に触れなかった理由は特に妻を愛していたが故ではなかった。ただあのようなおどけたことをしている人間がいつでもそれ相当に苦心をして造った理窟《りくつ》に身を捧げているのが賛成出来なかっただけである。
「どうだ、君は日本人だというが、パリーの女は美しいだろう」
 パリーで椅子を隣りにした外人が梶に訊ねたことがあったが、
「いや、日本の女はもっと綺麗《きれい》だ」と梶は答えた。
「それじゃ、踊り場へ行ったことがあるか」
「日本人は女や踊り場を好かん」
 と梶は云うと、外人はびっくりしたように小首をかしげながら考えていたことがあったが、梶は今その顔をふと思い出すと突然面白くなって笑った。
「日本の女は外国の女よりもっと美しいと虚勢を張って云って来たが、どうして満洲からこっちへ這入《はい》って来ると、全く美しいのにびっくりしたね」
 そう云って梶が何心なく足を組み変える拍子に、芳江の手に彼の足先きがふと触れた。初めて触れ合う皮膚であった。梶は思わず足を引いたが芳江のほッと赧らむ顔からも視線を避けて起き上ると、
「水をくれないか」と催促した。
 度度前から芳江と視線が合うものの、その度に気まり悪げに俯向《うつむ》く芳江と同じように、梶もそそくさと他所眼《よそめ》をしながら、芳江の顔を正視しかねているのであった。いつもは家にいると怒鳴りつけるように大声で妻に用事を命じる梶の癖も、このときは何となく恰好《かっこう》がつかずに庭の松の大木ばかりに眼が奪われるのを、どうも不思議な松だとじっと梶は眺めていた。
「世界を廻って来たお蔭で悟りがなくなってしまったぞ」
 梶はにやにやしながら妻の持って来た水のことなど忘れているとき、馳《か》け込んで来た四つになる子供が父の梶を見てびっくりしたらしく笑顔もせず急に立ち停った。
「おい、来なさい」
 こう梶は云うと、子供は黙ったまま、冠《かぶ》っていた帽子をずるずる鼻の下へ引き摺《ず》り降ろして顔から取りのけようとしなかった。
「パパお帰りなさいっておっしゃいよ。羞しいの」
 芳江に云われても子供は顔を隠しつづけている帽子の縁を噛《か》みながら、矢張り立ちはだかったまま黙っていた。
 梶は水を飲みつつ再びこれから前の定着した日常生活が始ろうとしているのだと思った。しかし、しばらく日本の時間を脱していた梶の感覚は自分の家族の生活がこの東洋の一角にあったのだと知って、不思議な物を見るように妻や子供を手探り戻そうとし始めた。それにしても、何と自分は大きな物を見て来たものだろう。あれが世界というものかと、梶は自分の子供の顔を眺めて初めて世界の実物の大きさにつくづく驚きを感じるのであった。虚無といい、思想というも、みな見て来たあの世界より他にはないのだと思うと、夢うつつのごとくあれこれと思い描いていた今までの世の中が、一瞬にしてかき消えたように思われた。
「いったい、どこを自分はうろうろしているのだろう。この自分の坐っている所は、これゃ何という所だろう」
 梶は浦島太郎のように妻子の前であるにも拘《かかわ》らず、ときどき左右をきょろきょろ見廻した。全く自分の見て来たものも知らずにまだ前と同じ良人《おっと》だと自分を思っている妻の芳江が、このとき何となく梶には憐《あわ》れに見えてならなかった。
「お前はいったい何者だ」
 妻や子供を見ながらこう云う気持ちが起っては、以後の生活の不安も意想外なところに根を張っているものだと、梶は身の周囲を取り包んでいる漠《ばく》とした得体の知れない不伝導体をごしごし擦《こす》り落しにかかったが、ふと前に一足触った芳江の皮膚の柔かな感触だけが、嘘《うそ》のようなうつつの世界から強くさし閃《ひらめ》いているのを感じると、触覚ばかりを頼りに生きている生物の真実さが、何より有難いこの世の実物の手ごたえだと思われて、今さら子供の生れて来た秘密の奥も覗《のぞ》かれた気楽さに立ち戻り、またごろりと手枕のまま横になった。
 世界のどこかに自分の子供があるということは、全く捨て置き難い。この地を愛せずしてなるものか。――南無《なむ》、天地、仏神、健《すこや》かにましまし給え。敵や悪魔を払い給えと、梶は胡桃《くるみ》の葉かげからきらめく日光に眼を射られながら、空の青さ広さに大の字となり、畳の上の喜ばしさに再びきょろきょろと飽かず周囲を見廻した。

 今まで度度東北地方へ来たにも拘らず、梶はこの度ほどこの地方の美しさを感じたことはなかった。親子兄妹が同じ町内に住んでいながら、顔を合せば畳の上へ額を擦《す》りつけて礼をするのも、奇怪以上に美しく梶は見惚《みと》れるのであった。稲穂の実り豊かに垂れている田の彼方《かなた》に濃藍色《のうらんしょく》に聳《そび》える山山の線も、異国の風景を眼にして来た梶には殊の他《ほか》奥ゆかしく、遠いむかしに聞いた南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》の声さえどこからか流れて来るように思われた。
 梶はこの風景に包まれて生れ、この稲穂に養われて死ぬものなら、せめてそれを幸福と思いたかったのが、今にしてようやくそれと悟った楽しさを得られたのも、遅まきながら異国の賜物だと喜んだ。全くこの独特な小さい稲穂の中で、押し合いへし合い捻《ね》じ合いつつ、無我夢中に成長して来たわれらの祖先の演劇は、何ものの中にも血となり肉となりしてこり塊《かたま》っていることこそ争い難い事実であった。
 笑わば笑え。真正真銘の悲劇喜劇もこれに増した痛烈な事件はあるまい。――こう梶の思う心の中で、ヨーロッパの知性に飛びついている顔が、足をぶらぶらさせていったい何を笑っているのか判然としなかった。
 世の中はぜんたいどこへ行くのであろう。――深夜眠れぬままにときどきこのように思ったパリーでの瞑想《めいそう》も、も早や梶から形をとり壊《こわ》して安らかに鎮《しずま》って来るのであった。このようなときには、梶に突き刺さって来た敵の槍《やり》さきも、蹴脱《けはず》す前に先ず槍を握って相手の顔を見たくなった。スペインの争乱が日日銃火を切って殺し合う図を思い描いても、思想の戯れの恐怖より銭欲しさの生活の頑固《がんこ》さが盗賊のように浮んで来るのであった。
「全く右へ行くも左へ行くもあったもんじゃないですね。これゃ食える方へ行ってるだけだ」
 梶はフランスの罷業《ひぎょう》を目撃してからドイツ、オーストリア、イタリアを廻ってパリーへ帰ると友人に話したことがあった。
「そうですよ。みなそうですよ」
 とヨーロッパの政治に明るい特派員の友人が彼に答えた。この人と梶が別れて東北の隅で新聞を見ていると、一カ月もたたぬのに、すでにこの紳士であるスマートな友人はスペインの動乱の上を飛行機で飛び廻り、空中からの彼の活躍のさまが手にとるように紙面に現れていた。
「日本の新聞記者ほど働く記者は世界のどこにもいませんよ。あまり働くので、われわれをペスト菌だと云ったポーランド人がおりますよ」と彼が苦笑をもらしたことがある。
 又ある大学の優秀な政治学の教授は、パリーの左翼の旺盛《おうせい》なさまを眼にしながら、
「自分は左翼に同情はしていたが、しかし、日本がこんなになられちゃ、これゃたまらないという気がして来ましたね。けれども、そうかと云って、生徒に君たちはファッショになれとは、どうしても云えませんからね。全く帰ったって、これじゃ生徒に教えようがなくなった。困ったことになって来た」
 とつくづく梶に腕組みしながらこぼしたことがあった。しかし、思想は民族から離れてあり得ようがない。論理の国際性の重要なことは梶とて充分知っているが、それ故《ゆえ》に知性は国際的なものだとは限っていない。民族の心理を飛び放れた科学者たちの知性が、国際性を何ものより最上としている現代の欠陥は、各民族の住する自然を同一視している彼らの理想の薄弱なところにあるのだと梶は思った。事実、自然の法則を発見する科学者たちの方法が各国共通の論理を根幹としている理由によって、その論理の対象とする自然と歴史の運動をも各国共通の自然と混同しているところに、現代という時間を忘れた知性の不明があると梶は思う癖があった。
 梶がヨーロッパへ旅立つ前からうっかり民族という言葉を用いようものなら、ひどく知識階級のある種のものたちから矢を受けた。けれども、この明瞭《めいりょう》な現実の根柢《こんてい》である
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