と彼は思いながら、夜気に湿った草原の中を勢い良く歩くのだが、世界の思想や状勢に頭を使い、日本のあれこれを思い悩んだ自分の考察も、根元から吹き上げられてはこのように無力なものになるのかと、今さらおかしく淋しくなって来た。
 その夜梶は海外へ行く前に日日寝つけた自分の部屋で、以前のままに敷いてある寝床の中へ初めて身体を横たえた。彼は天井を仰いでみた。背中は蒲団《ふとん》にぴたりとついて呼吸をする度にゆるやかに襟《えり》もとの動くのが眼についた。すると、弛《ゆる》んだ障子の根に添って見覚えの鼠《ねずみ》がちょろちょろと這い出て来ると梶を見詰めたままじっと様子を伺っていた。
「あーあ、もとの黙阿弥《もくあみ》か」
 と梶は思わず口に出た。次ぎの部屋で床に這入ったらしい芳江は面白そうに声を立てて笑い出した。



底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年8月20日初版発行
   1995(平成7)年4月10日34刷
入力:MAMI
校正:平野彩子
2001年3月5日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://
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