に、両翼を張った城壁のような石垣がある。その中央に古代の城門に似た鉄の黒い扉《とびら》がいつもぴったりと閉《しま》っているのを梶はしばしば通って見たことがあった。この建築は周囲一帯の壊れかかった古雅な趣きを満たしている風景の中では、丘の中堅をなしている堅固な支柱のごとき役目をしていた。これがツァラアの家だ。この建築は北欧風の鉄石のおもかげを保っているところから想像すると、あるいはイヴァアル・クロイゲルの設計になったものかもしれない。また彼の自殺が巴里で行なわれたからには、何事かこの家の鉄の扉がその秘密を知っているに相違あるまい。全世界を愚物の充満と見たクロイゲルの眼光がこの巴里を一望のうちに見降ろす丘の中腹に注がれたのは、いかにも革命児の睨《にら》みである。しかし、ツァラアはその義父のごとき実業家の集団に対して、まんまとスイスで一ぱい喰《く》わせた怪物だ。彼とクロイゲルとのこの家での漫然とした微笑は、ヨーロッパのある両極が丁丁《ちょうちょう》と火華《ひばな》を散らせた厳格な場であった。恐らくそれは常人と変らぬ義理人情のさ中で行われたことだろう。梶は知性とはそのようなものだと思っていた一人である。
 夜の九時過ぎに梶は友人と一緒に門扉《もんぴ》のボタンを押して女中に中へ案内された。中庭は狭くペンキの匂《にお》いがすぐ登る階段の白い両側からつづいて来た。階上の二十畳もあろうと思える客室の床は石だ。部厚い樫《かし》で出来ている床几《しょうぎ》のような細長い黒黒としたテーブルが一つ置いてある。正面の壁には線描の裸像の額がかかっているきりであるが、アフリカ土人の埋木の黒い彫刻が実質の素剛さで室内に知的な光りを満たしていた。梶は室内を眺めていてから横のテラスへ出た。そこには沢山の椅子が置いてあった。有名なモンマルトルの風車はすぐ面上の暮れかかっていく塔の上で羽根を休めていた。梶はその上に昇っている月を眺めながら、出て来るツァラアを待っていると、また来客が四人ほどテラスの椅子へ集って来た。皆芸術家たちで詩人、作家、彫刻家、美術雑誌の女社長等であった。間もなく六人七人と多くなって梶は紹介されるに遑《いとま》もないときツァラアが初めて現れた。
 ツァラアは少し猫背《ねこぜ》に見える。脊《せい》は低いがしっかりした身体である。声も低く目立たない。しかし、こういう表面絶えず受身形に見える人物は流れの底を知っている。この受身の形は対象に統一を与える判断力を養っている準備期であるから、力が満ちれば端倪《たんげい》すべからざる黒雲を捲《ま》き起す。猫を冠《かぶ》っているという云い方があるが、この猫は静な礼儀の下で対象の計算を行いつづけている地下の活動なのであろう。まことに受身こそ積極性を持つ平和な戦闘にちがいない。
 梶はツァラアに紹介されてから集った紳士淑女たちの円形に並んだ椅子の中に身を沈めた。会話はすべて巴里に進行している大罷業《だいひぎょう》の話ばかりだ。そのとき、左の方の円筒形をしている高い隣家のテラスから下の一団に向って犬がけたたましく吠《ほ》え立てた。ツァラアを囲んだ芸術家たちも、初めの間は思想上の会話をつづけていたが、だんだん高まる犬の声にも早や会話が聞きとり難くなって来た。犬を追い立てようにも間には断層のように落ち込んだ他家の庭がひかえている。一同はしばらく小さな声で口を鳴らせていた。しかし、相手は犬である。狂気のように吠え立て始めては利《き》くものではない。一同は苦笑をもらしてただ円塔の上を見上げているだけだ。
 梶はこのときスイスに於けるツァラア一派の発会式の情景をふと思い浮べると、微笑が唇《くちびる》にのぼって来るのを感じた。犬を鎮《しず》めるには犬より大きな声を出さねば逃げるものではない。この紳士淑女たちの間で、誰があの犬より大声をはり上げるであろうか。梶は興味をもって犬を見上げながら、現実をお茶にしたツァラアのかつての行動はこの犬に似ていると思った。しかし、今は彼は一流のフランスの現実上の名士である。もし彼が何らかの意味で、現実という愚劣|極《きわ》まればこそ最も重要な沃土《よくど》の意義をこの世に感じているものなら、今突如として湧《わ》き上ったこの胸を刺す諷刺《ふうし》の前で必ず苦杯を舐《な》めているにちがいない。――
 こう梶の思っているとき「しッ、しッ」と小さな声でツァラアは犬を追った。けれども、勿論彼の云いわけのような声では犬は鎮るものではなかった。もう一座は犬のますます高まる声で均衡がなくなり、焦燥した筋肉が顔面に現れて来て、このままではこの夜の集りはただ一同不満足のまま散って帰るより仕方がなくなった。すると、突然、梶の友人は円塔の上を仰いで、
「馬鹿ッ馬鹿ッ馬鹿ッ」
 と続けさまに大声で怒鳴った。その声はたしかに犬
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