など今は恰好《かっこう》な時機であろう。
 梶の験べたところによると先年スエーデンのマッチ王と呼ばれたイヴァアル・クロイゲルの自殺が話の結末である。彼の自殺は梶もヨーロッパへ渡る前から日本の新聞の報道で知っていた。しかし、世人の未《いま》だに信じているクロイゲルの自殺は実は虚報であったのだ。このような嘘《うそ》などは真相以上に真実な姿をとるものと梶は思っている。
 イヴァアル・クロイゲル、このマッチ王はもとはスエーデンの名もない建築技師であった。ある時北国のスエーデンでは冬期に開催される勧工場《かんこうば》建設の必要に突然迫られたことがあったが、冬期に於ける建築物の急造はこの国では不可能である。従ってすべての建築家はこの仕事を抛棄《ほうき》した。そのとき現れたのがクロイゲルであった。彼は工事を引き受けると同時に家の外郭だけ急造してそれから仕事を外郭の中でした。そうしてこの建築法としては曾《かつ》てなかった冒険に成功すると彼の名は忽《たちま》ち有名になった。そのクロイゲルが建築家から実業家となり、世界のマッチ王と呼ばれるまでにのし上げた敏腕のほどは梶には分らなかったが、ヨーロッパの財界を引っ掻《か》き廻した彼の傍若無人の振舞いだけは人の噂《うわさ》で知っていた。たしかにクロイゲルの頭の中には衆人が右を眺めているとき、同時に左をも眺め得られる大心理家の素質の潜んでいることだけは何人も頷《うなず》くことが出来る。
 千九百二十五年のあるとき、ハンガリアとユーゴスラビア、ルーマニアの三カ国がアメリカから金を借りねばならぬ事情にさしせまられたことがあった。この共同の借金の申込には担保が薄弱なためアメリカが応じなかった。この事実を知ると同時にクロイゲルは単身ニューヨークに渡った。そして、アメリカの銀行家と企業家三百人を招待して彼らの歓心を買うため八十人の踊子と金の葉巻入を振りまき、一割の利息で四億ドル借り受けに成功した。つまり、ハンガリア、ユーゴスラビア、ルーマニアの三国五千万人の信用よりもスエーデンの一マッチ王クロイゲル一個人の信用の方が絶大であったのだ。クロイゲルのこの信用がヨーロッパに拡がると、イタリアは彼から金を借りたいという証拠をヨーロッパの民衆に示して軍艦を造ったが、実はこれは虚偽であった。この虚偽のために作製した軍艦がエチオピアをいつの間にか奪っていたのである。一方クロイゲルはルーマニアとユーゴスラビアとハンガリアに四億ドルを貸し附け、三国から代りにマッチの専売権を取った。そのとき三千六百万ドルを借り受けたハンガリアは耕地整理に費した金額の残額を地主に頒《わ》け与えて土地を取り上げ、小作人にそれを分配した。しかし、このからくりの結果は尽《ことごと》くハンガリアの借財を小作人が引き受けさせられる羽目になった。つまり彼らが一銭のマッチを六銭で買わされているのはそれである。
 万事イヴァアル・クロイゲルの遣《や》り口はこのような計算の結果であったが、彼の目算もついに破れるときが来た。彼とアメリカとの合同企業の確実さも、全ヨーロッパの眼を見張らせた一割の利息を払う破格な約束の履行には困難であったからだ。クロイゲルは再び北スエーデンで新しく金鉱を発見したと嘘を云ったが、も早や彼に金を貸すものはなくなった。巴里《パリー》はクロイゲルの自殺を報じた。しかし、フランス政府はひそかに彼を南米に逃がしたと伝えられている。
 クロイゲルの死の事実か否かは梶も目撃したわけではなかったから確実なことは分らないが、彼の親戚遺族はそれぞれ莫大《ばくだい》な財産家となっていることだけは事実であった。

 梶がハンガリアから巴里へ戻って来たときは七月の初めであった。ところが、全く偶然なことにも彼がハンガリアへ出発する一カ月ほど前に、巴里のモンマルトルにあるクロイゲルの娘の家を訪問したことがあった。そのとき梶はその婦人がクロイゲルの娘だとは少しも知らなかった。梶の友人が婦人の良人《おっと》の詩人と知己だった関係からある夜友人につれられてその家へ遊びに行ったのである。しかも、一層梶にとって興味深かったことにはその夫人の主人である詩人は、スイスのシュールリアリストたちの発会式のとき彼ら一団の頭目であったトリスツァン・ツァラアだったことだ。ツァラアはクロイゲルの娘と結婚するまでは乞食詩人と云われていたほどの貧しいルーマニア人であったが、いつの間にか彼の生来の鋭い詩魂は光芒《こうぼう》を現して、現在のフランス新詩壇では彼に追随するものが一人もないと云われるほど絶対の権威を持続するまでにいたっていた。全く詩壇と画壇の一部の者らはツァラアを空前絶後の大詩人と云うどころではない。ボードレールさえツァラアにだけは及ばぬとまで云っている。
 モンマルトルの頂きからやや下った裏坂
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