横で老人の代議士が衆議院へ來た手紙類の束を切つて、一つづつ丁寧に讀んでゐた。すると、汽車がある驛に着いた。代議士は窓から外を見て、急に手紙類をかかへたまま降りていつた。私は自分の降りる驛はまだ遠かつたが、突然その代議士の後からついて降りた。代議士は立派な自動車に乘つた。私も一番綺麗な自動車を撰ぶと代議士の後から追つていつた。私は彼の後を追ふ自分に何の特別な目的もなかつたが、どこでこの代議士と別れるやうになるものかと、ただそれだけが興味であつた。自動車は宿場町を過ぎると廣い坂道を山の湯へ向つていつた。けれども、もう私はいつの間にか代議士のことなど忘れてゐた。「ああ、忘れる、これほど健康なことはあつたのか。」かう思ふ後から、見る見る秋草に滿ち膨れた山の斜面が眼下に向つて摺り落ちていつた。
伊香保の夜はもう書くまい。明日は榛名だ。私はここはまだ初めてのところだが、友人のSがあるとき誰かに歎聲を洩しながら、何事かしきりに推賞してゐる聲をふと聞いたので、何だと横から訊くと、榛名だと言下に答へた記憶を思ひ起す。私は混雜した宿の窓からはるかな山頂の榛名を仰ぐと、榛名は雲の中に隱れてゐる。私はまだ
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