亞比酸を飮みました。この方は死にきれずに、苦しまぎれに山番のところへいつて、水をくれと云つたので、山番に助けられてここへ歸つて來ましたが、もう一つは心中で、あの向ふの氷屋《ひや》のところでありました。この人たちは氷屋《ひや》へ殖林を見にいらつしやいました役人さんに助けられて來たのですが、役人さんが初めここへ一人でいらつしやいましたときに、夕飯を一人前用意しといてくれと云つて、それから氷屋へ湖を渡つて行かれましたのに、歸つて來たときには、三人前にしてくれと仰言るんでございますよ。それでわたくしはお部屋へ來て見ましたら、御夫婦らしい初めてのお客さんがまた二人もいらつしやるんでございませう。それに三人の方は一言も何もお話にならないものですから、役人さんにどうなさいましたのとお訊きしましたら、分つてるぢやないかと仰言るんですの。でも、どうしてここはこんなに、皆さん死にたくなるんでございませう。

 隣室では旅人が宿の女中と知り合らしく、酒を飮みながらのべつ幕なしに饒舌つてゐる。それも坐つたときから口を突いて出て來る手練れたからかひに、隣室の女中の笑聲は絶え間がない。僅に得た閑を利用して、出來得る限りの樂しみに耽らうとしてゐるらしい。女中が一口云へばそれに絡り、八方から猥雜な言葉を速射して一言も云はせない。女中はだんだん笑ひくたびれて、何とはなしに吐息をもらすと、また浴びせる。やがて女中はくたくたにもみ通されて一口も言葉を出さなくなつた。しかし、客はますます勢ひを増すばかりだ。私は隣室から二人の樣子を伺ひながら、よくもあんなに女のあらゆる角度を索《さが》してからかはれたものだと感じ入つた。すると、そのとき、月の下から酩酊した大兵肥滿の男が現れると、隣室の男に喧嘩を吹つかけるやうな調子で、一別以來の挨拶をし始めた。二人は酒を二三杯飮み交してゐるうらに、突然一人が、ボートをこれから漕がうと云ひ出した。よし漕がうと答へると、二人はよろけながら腕を捲くり上げ、縁側から湖の方へ降りていつた。大兵肥滿の方は何か一口云ふ度に、對岸にまで木靈を響かせて大聲で笑ふ癖があつた。やがて、ボートは賑やかな二人の醉漢を乘せて勢ひよく搖れ始めたが、その途端不意にボートの影が見えなくなると、それと同時に、人聲もずぼずぼと沈んだやうに森閑となつてしまつた。私は立ち上つて湖の底を覗いてみた。しかし、いつまでたつても、私はただ大きな私の影が湖面の上に倒れかかつて、右から照り輝いてゐる滿月の光りと爭つてゐるのを見ただけである。そのとき、一疋の蟋蟀がはつと滿月の中から飛び込んで來たかと思ふと、冷たく私の右側の鼻柱を蹴りつけて見えなくなつた。

 私は女と一緒に波打際へ降りていつた。女は頬笑みながら悠然として云つた。――醉つぱらつてゐたつて、あの人たち沈んでしまふやうな人ぢやありませんわ。あの大きな聲で笑ふ人は、あそこに見える料理屋の主人ですから、きつとまた思ひ返してお酒を飮みに行つたんでせう。隣りのお客さんは下の町の役人さんで、ときどきいらつしやる方なんですけど、あの方よりまだよくからかふ方がお仲間の中にいらつしやるんですよ。いつもはその方ともう一人別の方と、三人でいらつしやるんですけど、さうしたら、家の中はたいへんなんでございますよ。きつと明日の夜はその方たち遲れていらつしやるんでせうけど、あたくしたち、もう眠るところがなくなつてしまひますわ。――女のいふことを聞いてゐると、明日來る客たちは、この前に來たときには、女らが寢やうとすると女中部屋へ追ひかけて來る。物置で寢てゐると、今度は物置へ來る。そこで仕方がないので隣室の私の部屋の押入で寢てゐたら、たうとう搜しあてられずに夜が明けたさうである。

 私と女は波を消した渚に添つて歩いていつた。向日葵《ひまはり》が垂れた首のやうに砂の中に立つてゐた。寢ているキャムプの布の傍まで來かかると、女は思ひ出した數日前の出來事をまた話した。――もう一週間にもなりますかしら。それは綺麗な明るい奧さんが二階のお部屋に一人で來ていらつしやいましたんですが、丁度こんなお月夜の晩、あたくしをお誘ひになりましたので、二人で向ふ岸にゐる學生さんたちのキャムプを見に、ボートで出かけて行きましたの。さうしましたら、向ふへ上るとすぐに、先生が一人出ていらつしやいまして、今夜は學生を澤山つれて來てゐるんだから、すぐ歸つてくれつて叱るんでございますよ。あの向ふ岸へは誰が行かうと勝手ですのに、そのときはそんなことも云つてゐられませんで歸つて來ましたが、でも、ここにゐると淋しくなるので、つい見に行きたくなるのも無理はないとあたくし思ひましたのでございますよ。

 眠れぬままに、私はここへ來て最初に腰を降ろしたときの眺望の印象を思ひ起さうとつとめてみた。しかし、もうそ
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