四肢をときどき慄はして眠つてゐる犬、腹を干した岸のボート、ぼつりと一つ芝生の上に見えるキャムプ。森の中に生えてゐる丈長い蘆。白い樹間を絡りながら流れる煙。淡紅色に塊つた花魁《おいらん》草の花の一群。絶えず水甕へ落ちる水の音。――私は身體の中から都會の濁りが空の中へ流れ出す疲れをぐつたりと感じていつた。希望はもうここでは何ものも起らない。私はただ睡るばかりだ。

 湖の向ふに見える小舍は氷屋《ひや》でございますよ。湖の番人がゐるのです。と女は私の質問に答へて云つた。私は湖面に一つ浮んでゐる白い箱を指差してまた訊ねた。あれは燈籠流しの殘り物です。もう一週間早くいらつしやれば御覽になれましたのにといふ。燈籠流しの夜には湖面へ五百ばかりの燈籠を浮べる。それが風の間に間に湖いつぱいに漂ひ流れて沈んでいく。――私は女の唇から露れる齒の美しさを眺めながら、この婦人の山上の望みは何かと訊ねたかつた。聲は細細としてゐて抑揚は何もない。――突如、湖面に落ちる雨の波紋。ほの暗い森の中から一聲唸りを上げたと見る間に、眠るがやうに沈んでいくモーターの音。飛び立つ小鳥の足もとから木の葉に辷り落ちる粗い水滴。微風に搖れる少女の髮。石の上を蹴る蟋蟀。連ねた番傘を舞しつつ草の中を下る娘たち。拔手を切つて雨中を泳ぐ一人の若者。――

 女は私の部屋へ來て故郷の話や去つて行つた客の話をするやうになつた。彼女は廿歳だがまだ東京を見たことがなかつた。彼女の兄は小學校を一番で出て飛行隊に這入つてゐるが、休みになつて妹に逢ひに來るのが何よりの樂しみであつた。兄は彼女に料理屋にはどんなことがあらうとも住み込むなと云つたのに、それに宿屋へ這入つた自分を見て、何といつて悲しむことかと女は云ふ。厚い鮮やかな色の耳が福福しく、下膨れの落ちついた頬に笑窪が洩れる。彼女は坐つた縁側の粗い木目の上を飛ぶ蠅[#「蠅」は底本では「繩」]を眼で追ひながら、母が繼母であるから家へは歸れないのでここにゐるものの、東京へはいつか出たいのだが出ても女の落ち行く先は定つてゐるから、出世もなかなか覺束なく思ふといふ。――湖の上からは、遠方のボートの上で歌つてゐる少女の聲が間近く聞えて來る。湖面を飛び渡る白い蝶。方向を變へて流れる煙。草の間できらめき光る鎌の刄。長く尾を曳いて鳴き交す鳥の囀り。吠えるやうに山峽を登つて來る一臺の自動車。絶えずこちらに向つて押しよせて來る波紋。かの白い一疋の蝶は、まだいつまでも山と云はず森と云はず雲と云はず、ひらひら不安な姿で縱横無盡に活溌に暴れつづけてゐる。ふと見ると、高い梢の白い花が日光を受けて明るく輝いたと思ふ間に、忽ち日に影つてまたさびれる。厨の方から料理する庖丁の音が水音に混つて聞えて來る。

 花魁草の花の中に蹲みながら、暮れかかつていく湖を眺めてゐる私の傍に、女は廊下を降りて來て立つた。しかし、私にはもう女の姿も大きな山脈も、眼の前に垂れ下つた淡紅色の花瓣に流れた微細な水脈も、大小の比較がかき消えて、かすかに呼吸してゐる自分の胸もとの襟のゆるやかに動くのが眼につくだけだ。白く細つそりした雄蕋や、入り組んだ雌蕋の集合した花花のその向ふでは、今や日没の光線に金色に輝いた湖面が靜まり返つて傾き始めた。キャムプの草の上で焚火をしてゐる若者の歌ふ青春の唄が、透明な空氣を搖り動かして流れて來る。花の中に首をさし入れてゐる私の顏の周圍は、ほの明るく火を入れたやうに色めき立ち、草笛の音のやうにうす甘く眠つてゐる官能を激しく呼び醒して少年の日をめくる。折から撥ね上る水面の魚。齒をむいて驅け昇つて來る童兒。やがて、最後の光線とともに萬目すべてぴたりと音を消した。動くものは何物もなく、眼界一人の人物とてゐない。ただ手折つて來た花が縁側の上に凋れて影を映してゐるばかり。

 夕食に出た茄子の燒きがどこかで見覺えのある燒き方だと思つて覗いてゐると、それは晝食に出されたこの宿の茄子であつた。押しよせて來てゐた群青のために、私は早や過去をそんなに激しく忘れてゐたのであらうか。沈默と靜けさの中で動いてゐた精神はこれすべて、色彩の祕密の底を潛つてゐたのであらうか。――ふと氣附くと、朝から鳴きつづけて來た一疋の小蟲がまだ鳴きつづけてやまない。巨大な滿月が秋草の中から昇つて來た。沈んだ湖面は再び月に向つて輝きながら傾いた。私は膝を崩して杯を上げた。女は酒を注いだ。夜になつて峠を越えて來た旅人が隣室へ這入つて來た。私は女に、この山の頂で希望を捨てる旅人の數を尋ねてみた。すると、女は、彼女が來てからこの二ヶ月の間に三つの自殺者のあつた話をし始めた。

 わたくしの來た三日目に、書生さんが一人來て、アダリンを飮んで二階で死にましたが、それから二週間目に、また一人書生さんがいらつしやいまして、あの左の山の中で
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