《まゆげ》には細かい雨が溜り出した。
「灸ちゃん。雨がかかるじゃないの。灸ちゃん。雨がよう。」と姉がいった。
 二度目に灸が五号の部屋を覗いたとき、女の子はもう赤い昨夜の着物を着て母親に御飯を食べさせてもらっていた。女の子が母親の差し出す箸《はし》の先へ口を寄せていくと、灸の口も障子の破れ目の下で大きく開いた。
 灸はふとまだ自分が御飯を食べていないことに気がついた。彼は直ぐ下へ降りていった。しかし、彼の御飯はまだであった。灸は裏の縁側へ出て落ちる雨垂れの滴《しずく》を仰いでいた。
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「雨こんこん降るなよ。
 屋根の虫が鳴くぞよ。」
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 河は濁って太っていた。橋の上を駄馬が車を輓《ひ》いて通っていった。生徒の小さ番傘《ばんがさ》が遠くまで並んでいた。灸は弁当を下げたかった。早くオルガンを聴きながら唱歌を唄ってみたかった。
「灸ちゃん。御飯よ。」と姉が呼んだ。
 茶の間へ行くと、灸の茶碗に盛られた御飯の上からはもう湯気が昇っていた。青い野菜は露《つゆ》の中に浮んでいた。灸は自分の小さい箸をとった。が、二階の女の子のことを思い出すと彼は箸を置いて口を母親の方へ差し出した。
「何によ。」と母は訊《き》いて灸の口を眺めていた。
「御飯。」
「まア、この子ってば!」
「御飯よう。」
「そこにあなたのがあるじゃありませんか。」
 母はひとり御飯を食べ始めた。灸は顎《あご》をひっ込めて少しふくれたが、直ぐまた黙って箸を持った。彼の椀《わん》の中では青い野菜が凋《しお》れたまま泣いていた。
 三度目に灸が五号の部屋を覗くと、女の子は座蒲団を冠《かぶ》って頭を左右に振っていた。
「お嬢ちゃん。」
 灸は廊下の外から呼んでみた。
「お這入《はい》りなさいな。」と、婦人はいった。
 灸は部屋の中へ這入ると暫く明けた障子に手をかけて立っていた。女の子は彼の傍へ寄って来て、
「アッ、アッ。」といいながら座蒲団を灸の胸へ押しつけた。
 灸は座蒲団を受けとると女の子のしていたようにそれを頭へ冠ってみた。
「エヘエヘエヘエヘ。」と女の子は笑った。
 灸は頭を振り始めた。顔を顰《しか》めて舌を出した。それから眼をむいて頭を振った。
 女の子の笑い声は高くなった。灸はそのままころりと横になると女の子の足元の方へ転がった。
 女の子は笑いながら手紙を書いている母親の肩を引っ張って、
「アッ、アッ。」といった。
 婦人は灸の方をちょっと見ると、
「まア、兄さんは面白いことをなさるわね。」といっておいて、また急がしそうに、別れた愛人へ出す手紙を書き続けた。
 女の子は灸の傍へ戻ると彼の頭を一つ叩いた。
 灸は「ア痛ッ。」といった。
 女の子は笑いながらまた叩いた。
「ア痛ッ、ア痛ッ。」
 そう灸は叩かれる度《たび》ごとにいいながら自分も自分の頭を叩いてみて、
「ア痛ッ、ア痛ッ。」といった。
 女の子が笑うと、彼は調子づいてなお強く自分の頭をぴしゃりぴしゃりと叩いていった。すると、女の子も、「た、た。」といいながら自分の頭を叩き出した。
 しかし、いつまでもそういう遊びをしているわけにはいかなかった。灸は突然犬の真似をした。そして、高く「わん、わん。」と吠《ほ》えながら女の子の足元へ突進した。女の子は恐《こ》わそうな顔をして灸の頭を強く叩いた。灸はくるりとひっくり返った。
「エヘエヘエヘエヘ。」とまた女の子は笑い出した。
 すると、灸はそのままひっくり返りながら廊下へ出た。女の子はますます面白がって灸の転がる後からついて出た。灸は女の子が笑えば笑うほど転がることに夢中になった。顔が赤く熱して来た。
「エヘエヘエヘエヘ。」
 いつまでも続く女の子の笑い声を聞いていると、灸はもう止まることが出来なかった。笑い声に煽《あお》られるように廊下の端まで転がって来ると階段があった。しかし、彼にはもう油がのっていた。彼はまた逆様《さかさま》になってその段々を降り出した。裾《すそ》がまくれて白い小さな尻が、「ワン、ワン。」と吠えながら少しずつ下がっていった。
「エヘエヘエヘエヘ。」
 女の子は腹を波打たして笑い出した。二、三段ほど下りたときであった。突然、灸の尻は撃《う》たれた鳥のように階段の下まで転った。
「エヘエヘエヘエヘ。」
 階段の上では、女の子は一層高く笑って面白がった。
「エヘエヘエヘエヘ。」
 物音を聞きつけて灸の母は馳《か》けて来た。
「どうしたの、どうしたの。」
 母は灸を抱き上げて揺《ゆす》ってみた。灸の顔は揺られながら青くなってべたりと母親の胸へついた。
「痛いか、どこが痛いの。」
 灸は眼を閉じたまま黙っていた。
 母は灸を抱いて直ぐ近所の医者の所へ馳けつけた。医者は灸の顔を見ると、「アッ。」と低く声を上げた。灸は死
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