赤い着物
横光利一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)点燈夫《てんとうふ》

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 村の点燈夫《てんとうふ》は雨の中を帰っていった。火の点《つ》いた献灯《けんとう》の光りの下で、梨《なし》の花が雨に打たれていた。
 灸《きゅう》は闇の中を眺めていた。点燈夫の雨合羽《あまがっぱ》の襞《ひだ》が遠くへきらと光りながら消えていった。
「今夜はひどい雨になりますよ。お気をおつけ遊ばして。」
 灸の母はそう客にいってお辞儀をした。
「そうでしょうね。では、どうもいろいろ。」
 客はまた旅へ出ていった。
 灸は雨が降ると悲しかった。向うの山が雲の中に隠れてしまう。路《みち》の上には水が溜った。河は激しい音を立てて濁り出す。枯木は山の方から流れて来る。
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「雨、こんこん降るなよ。
 屋根の虫が鳴くぞよ。」
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 灸は柱に頬《ほお》をつけて歌を唄《うた》い出した。蓑《みの》を着た旅人が二人家の前を通っていった。屋根の虫は丁度その濡れた旅人の蓑のような形をしているに相違ないと灸は考えた。
 雨垂《あまだ》れの音が早くなった。池の鯉《こい》はどうしているか、それがまた灸には心配なことであった。
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「雨こんこん降るなよ。
 屋根の虫が鳴くぞよ。」
[#ここで字下げ終わり]
 暗い外で客と話している俥夫《しゃふ》の大きな声がした。間もなく、門口《かどぐち》の八《や》つ手《で》の葉が俥《くるま》の幌《ほろ》で揺り動かされた。俥夫の持った舵棒《かじぼう》が玄関の石の上へ降ろされた。すると、幌の中からは婦人が小さい女の子を連れて降りて来た。
「いらっしゃいませ。今晩はまア、大へんな降りでこざいまして。さア、どうぞ。」
 灸の母は玄関の時計の下へ膝をついて婦人にいった。
「まアお嬢様のお可愛《かわい》らしゅうていらっしゃいますこと。」
 女の子は眠むそうな顔をして灸の方を眺めていた。女の子の着物は真赤《まっか》であった。灸の母は婦人と女の子とを連れて二階の五号の部屋へ案内した。灸は女の子を見ながらその後からついて上ろうとした。
「またッ、お前はあちらへ行っていらっしゃい。」と母は叱った。
 灸は指を食《く》わえて階段の下に立っていた。田舎宿《いなかやど》の勝手元《かってもと》はこの二人の客で、急に忙しそうになって来た。
「三つ葉はあって?」
「まア、卵がないわ。姉さん、もう卵がなくなってしまったのね。」
 活気よく灸の姉たちの声がした。茶の間では銅壺《どうこ》が湯気を立てて鳴っていた。灸はまた縁側《えんがわ》に立って暗い外を眺めていた。飛脚《ひきゃく》の提灯《ちょうちん》の火が街の方から帰って来た。びしょ濡れになった犬が首を垂れて、影のように献燈の下を通っていった。
 宿の者らの晩餐《ばんさん》は遅かった。灸は御飯を食ぺてしまうともう眠くなって来た。彼は姉の膝の上へ頭を乗せて母のほつれ毛を眺めていた。姉は沈んでいた。彼女はその日まだ良人《おっと》から手紙を受けとっていなかった。暫《しばら》くすると、灸の頭の中へ女の子の赤い着物がぼんやりと浮んで来た。そのままいつの間にか彼は眠ってしまった。
 翌朝灸はいつもより早く起きて来た。雨はまだ降っていた。家々の屋根は寒そうに濡れていた。鶏《にわとり》は庭の隅《すみ》に塊《かたま》っていた。
 灸は起きると直ぐ二階へ行った。そして、五号の部屋の障子《しょうじ》の破れ目から中を覗《のぞ》いてみたが、蒲団《ふとん》の襟《えり》から出ている丸髷《まるまげ》とかぶらの頭が二つ並んだまままだなかなか起きそうにも見えなかった。
 灸は早く女の子を起したかった。彼は子供を遊ばすことが何よりも上手であった。彼はいつも子供の宿《とま》ったときに限ってするように、また今日も五号の部屋の前を往《い》ったり来たりし始めた。次には小さな声で歌を唄った。暫くして、彼はソッと部屋の中を覗くと、婦人がひとり起きて来て寝巻のまま障子を開けた。
「坊ちゃんはいい子ですね。あのね、小母《おば》さんはまだこれから寝なくちゃならないのよ。あちらへいってらっしゃいな。いい子ね。」
 灸は婦人を見上げたまま少し顔を赧《あか》くして背を欄干《らんかん》につけた。
「あの子、まだ起きないの?」
「もう直ぐ起きますよ。起きたら遊んでやって下さいな。いい子ね、坊ちゃんは。」
 灸は障子が閉まると黙って下へ降りた。母は竈《かまど》の前で青い野菜を洗っていた。灸は庭の飛び石の上を渡って泉水の鯉を見にいった。鯉は静《しずか》に藻《も》の中に隠れていた。灸はちょっと指先を水の中へつけてみた。灸の眉毛
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