の下に立っていた。田舎宿《いなかやど》の勝手元《かってもと》はこの二人の客で、急に忙しそうになって来た。
「三つ葉はあって?」
「まア、卵がないわ。姉さん、もう卵がなくなってしまったのね。」
活気よく灸の姉たちの声がした。茶の間では銅壺《どうこ》が湯気を立てて鳴っていた。灸はまた縁側《えんがわ》に立って暗い外を眺めていた。飛脚《ひきゃく》の提灯《ちょうちん》の火が街の方から帰って来た。びしょ濡れになった犬が首を垂れて、影のように献燈の下を通っていった。
宿の者らの晩餐《ばんさん》は遅かった。灸は御飯を食ぺてしまうともう眠くなって来た。彼は姉の膝の上へ頭を乗せて母のほつれ毛を眺めていた。姉は沈んでいた。彼女はその日まだ良人《おっと》から手紙を受けとっていなかった。暫《しばら》くすると、灸の頭の中へ女の子の赤い着物がぼんやりと浮んで来た。そのままいつの間にか彼は眠ってしまった。
翌朝灸はいつもより早く起きて来た。雨はまだ降っていた。家々の屋根は寒そうに濡れていた。鶏《にわとり》は庭の隅《すみ》に塊《かたま》っていた。
灸は起きると直ぐ二階へ行った。そして、五号の部屋の障子《しょうじ》の破れ目から中を覗《のぞ》いてみたが、蒲団《ふとん》の襟《えり》から出ている丸髷《まるまげ》とかぶらの頭が二つ並んだまままだなかなか起きそうにも見えなかった。
灸は早く女の子を起したかった。彼は子供を遊ばすことが何よりも上手であった。彼はいつも子供の宿《とま》ったときに限ってするように、また今日も五号の部屋の前を往《い》ったり来たりし始めた。次には小さな声で歌を唄った。暫くして、彼はソッと部屋の中を覗くと、婦人がひとり起きて来て寝巻のまま障子を開けた。
「坊ちゃんはいい子ですね。あのね、小母《おば》さんはまだこれから寝なくちゃならないのよ。あちらへいってらっしゃいな。いい子ね。」
灸は婦人を見上げたまま少し顔を赧《あか》くして背を欄干《らんかん》につけた。
「あの子、まだ起きないの?」
「もう直ぐ起きますよ。起きたら遊んでやって下さいな。いい子ね、坊ちゃんは。」
灸は障子が閉まると黙って下へ降りた。母は竈《かまど》の前で青い野菜を洗っていた。灸は庭の飛び石の上を渡って泉水の鯉を見にいった。鯉は静《しずか》に藻《も》の中に隠れていた。灸はちょっと指先を水の中へつけてみた。灸の眉毛
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