ち》の思ひつつ常のつつしみかりそめならず」
これは囚人を絶えず見守っている人の家に帰った述懐であろうが、この述懐がつもり積って次のような歌となり、人人の心を襲って来るのが一首あった。
「生きの身をくだきて矯《た》めよ囚人《めしうど》の心おのづとさめて来たらむ」
看守長のなさけはまだこの他にも幾つとなくつづいていた。折にふれてと題して、
「口重き吾《われ》にもあらず今日はまたあらぬ世辞言ひ心曇りぬ」
この人は心の騒ぐ日、いつも歎き悲しむ歌を詠むのが習慣となっているが、その一つに、
「己が身の調《ととの》はざるか人の非にかくも心のうちさわぎつつ」
というのがある。私は自分にもこんな日がしばしば来たばかりか、他人の非に出あわぬ朝とて幾十年の間ほとんどないのを思いよくも永年《ながねん》この忍耐をしつづけて来たものだと、我が身をふり返って今さら感慨にふけるのだった。
「上官のあつきなさけに己が身を粉とくだきて吾はこたへむ」
この歌も高次郎氏を思うと嘘ではなかった。私はこのような心の人物の一人でも亡くなる損失をこのごろつくづくと思うのだが、上官に反抗する技術が個性の尊重という美名を育て始めた近代人には、古代人のこの心はどんなに響くものか、私は今の青年の心中に暗さを与えている得も云われぬ合理主義に、むしろ不合理を感じることしばしばあるのを思い、私の子供にこれではお前の時代は駄目になるぞと叱る思いで、次の歌を読みつづけた。
「移されしさまにも見えずわが池の白き睡蓮《すいれん》けさ咲きにけり」
加藤高次郎氏のこの歌集は題して「水蓮」という。これは高次郎氏の歌の師匠のつけた題であるが、この師は高次郎氏の「睡蓮」について睡を水としたまま次のように書いている。
「加藤君がかつて水蓮によって、人生をいたく教えられたことがあると言って、しみじみと洩《も》らされたことがあった。先年役所(刑務所)の庭に造った池に、所長さんの処から一株の水蓮を根分けしていただいたことがある。この水蓮は刑務所の池へ移されて来ても、少しもかわるところがない。やはり水蓮としての性を十分発揮してその可憐《かれん》なやさしい美しい花を開いているではないか。この水蓮の可憐な花の姿に加藤君は魂をうたれた。人間であればいかなる偉い人でも、刑務所へ移されると態度が変ってしまう。それなのに水蓮は移されたことも知らぬ顔に咲き誇っている。なんたる自然の偉大さであろう。出来得べくんば自分もこの水蓮の花のように、如何《いか》なる事件に逢おうとも心を動かすことなくありたい。これが加藤君の水蓮によって悟入した心境であった」
師匠というものは弟子の心をよく知っているものだが、高次郎氏もまた、水蓮のような人として師の眼に映じていたにちがいない。この遺歌集の最後の二首は、また氏の最後のものらしく円熟した透明な名残《なご》りをとどめている。
「しののめはあけそめにけり小夜烏《さよがらす》天空高く西に飛びゆく」
「大いなるものに打たれて目ざめたる身に梧桐《あをぎり》の枯葉わびしき」
高次郎氏の師匠はさらにこの歌集の巻末に、加藤君はある夜役所の帰りに突然私の所へ来て、雑誌に出た自身の歌を全部清書したいからと云い、端座したまま夜更《よふけ》までかかって清書をし終えた。その後で酒を二人で飲んで帰途についたが、翌日加藤君の危篤の報に接し、次の日に亡くなった。人生朝露のごとしといえあまりのことに自分は自失しそうだと書いてあった。
してみると、高次郎氏が電車に飛ばされたのは、自分の歌集を清書し終えたその夜の帰途にちがいないと私は思った。私には高次郎氏の死はもう他人の事ではなく、身に火を放たれたような新しい衝撃を感じた。一度は誰にも来る終末の世界に臨んだ一つの態度として、端座して筆を握り自作を清書している高次郎氏の姿は、も早や文人の最も本懐とするものに似て見え、はッと一剣を浴びた思いで私はこの剣客の去りゆく姿を今は眺めるばかりだった。
高次郎氏が亡くなってからやがて一周忌が来る。先日家内は私の家の兎を食い殺した加藤家の猫が、老窶《おいやつ》れた汚《きたな》い手でうろうろ食をあさり歩いている姿を見たと話した。私は折あらば一度その猫も見たいと思っている。
底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社
1969(昭和44)年8月20日初版発行
1995(平成7)年4月10日34刷
入力:MAMI
校正:松永正敏
2000年10月7日公開
青空文庫作成ファイル:
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