じた。すると、次の朝になって次男が、
「加藤さんの小父さん、お酒飲んで帰って来たら、電車に突き飛ばされて死んじゃったんだって」とまた云った。
「違うよ。まだ生きてるんだよ」
と長男が今度はどういうものか強く否定した。
「死んだんだよ。死んだと云ってたよ」
とまた次男は声を強め倦《あ》くまで長男に云い張った。どちらがどうだかよく分らなかったが、とにかく不慮の出来事のこととてこちらから訊ねに行くわけにもいかずそのままでいると、その翌日になって高次郎氏の家から葬《とむらい》が出た。
私は家内を加藤家へお焼香にやった後、小路いっぱいに電柱の傍に群れよって沈んでいる、看守の服装をした沢山な人たちの姿を眺めていた。そのときふと私はその四五日前に見た、加藤家の半白の猫が私の家の兎《うさぎ》の首を咥《くわ》えたと見る間に、垣根《かきね》を潜《くぐり》り脱けて逃げた脱兎《だっと》のような身の速さを何となく思い出した。
高次郎氏の不慮の死はやはり子供たちの云い張ったようだった。酔後終電車に跳ねられてすぐ入院したが、そのときはもう内出血が多すぎて二日目に亡くなったということである。みと子夫人は裁縫の名手だから高次郎氏の死後の生活の心配は先ず無くとも、見ていても出来事は少しこの家には早すぎて無慙《むざん》だった。加藤家はその後すぐ人手にわたった。そして一家は高次郎氏やみと子夫人の郷里の城ヶ島へ水の引き上げてゆくような音無《おとな》しさで移っていった。
三カ月は不慮の死の匂いがあたりに潜んでいる寂しさで私は二階に立った。ある日みと子夫人から、香奠返《こうでんがえし》に一冊の貧しい歌集が届いた。納められた中の和歌は数こそ尠《すくな》かったがどれもみな高次郎氏の遺作ばかりだった。私は氏を剣客だとばかり思っていたのにそれが歌人だったと知ると、俄《にわか》に身近かなものの死に面したような緊張を感じ、粗末な集を先ず開いたところから読んでみた。
「宵月は今しづみゆき山の端《は》におのづ冴《さ》えたる夕なごり見ゆ」
「夕暗《ゆふやみ》に白さ目につく山百合《やまゆり》の匂ひ深きは朝咲きならむ」
月夜に明笛を吹いた剣客であるから相当に高次郎氏は優雅な人だと私は思っていたが、しかし、これらの二首の歌を見ると、私は今まで不吉な色で淀《よど》んで見えた加藤家の一角が、突然|爽《さわ》やかな光を上げて清風に満ちて来るのを覚え襟《えり》を正す気持ちだった。
「冷え立ちし夜床にさめて手さぐりに吾子の寝具かけなほしけり」
「井の端にもの洗ひ居《を》る我が妻は啖《たん》吐く音に駆けてきたれる」
この歌など高次郎氏の啖吐く音にも傍まで駆けよって来るみと子夫人の日常の様子が眼に泛《うか》んで来るほどだが、これらの歌とは限らず、どの歌も人格の円満さが格調を強め高めているばかりではない、生活に対して謙虚清澄な趣きや、本分を尽して自他ともどもの幸福を祈ってやまぬ偽りのない心境など、外から隣人として見ていた高次郎氏の温厚質実な態度以上に、はるかに和歌には精神の高邁《こうまい》なところが鳴りひびいていた。
暫くの間、私はこのあたりに無言でせっせっと鍬《くわ》を入れて来た自分の相棒の内生活を窺《のぞ》く興味に溢《あふ》れ、なお高次郎氏の歌集を読んでいった。妻を詠《うた》い子を詠う歌は勿論《もちろん》、四季おりおりの気遣《きづか》いや職務とか人事、または囚人の身の上を偲《しの》ぶ愛情の美しさなど、百三十二ほどのそれらの歌は、読みすすんでゆくに随《したが》い私には一句もおろそかに読み捨てることが出来ないものばかりだった。私ら二人は新年の挨拶以外に言葉を交《まじ》えたことはなかったとはいえ、どちらも十幾年の月日を忍耐して来た一番の古参である。この歌集の序文にも加藤高次郎君は剣道よりも後から和歌に入りまだ十幾年とはたたぬのに、かくも精神の高さにいたったことは驚歎に価すると歌の師匠が書いているが、私には、高次郎氏の歌はどの一首も思いあたることばかりだったのみならず、すべてそれは氏の亡くなってから私に生き生きと話しかけて来る声だった。私は身を乗り出し耳を傾ける構えだった。
「一剣に心こもりておのづから身のあはだつをかそかに知れり」
「正眼に構えて敵に対《むか》ひつつしばし相手の呼吸をはかる」
これは戸山学校の剣道大会に優勝したときの緊張した剣客の歌である。次にこういうのがあった。
「ことたれる日日の生活《たつき》に慣れにつつ苦業求むる心うすらぐ」
この歌は恐らくみと子夫人の情愛に、いつとなく慣れ落ちてしまった高次郎氏の悔恨に相違あるまい。このような歌を作った歌人はあまり私の知らないところだが、また私にも同様の悔恨が常に忍びよって来て私を苦しめることがある。
「現身《うつしみ》のもろき生命《いの
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