てらっしゃい」
と高くつづけさまに云って手を振り、主人の見えなくなるまで電柱の傍に立ちつくしている姿も、これも雨が降っても雪が降っても毎朝変らなかった。私の家内もこの新しい隣家の主婦の愛情の細やかさが暫《しばら》くは乗りうつったこともあったが、とうてい敵ではないとあきらめたらしくすぐ前に戻った。
「どうも、お前を叱るとき大きな声を出したって、ここなら大丈夫と思って来たのに、これじゃ駄目だ」
と私は家内と顔見合せて笑ったこともある。二階建から平屋の向うを圧迫する気がねがこちらにあったのに、実は絶えず下から揺り動かされている結果となって来た滑稽《こっけい》さは、年中欠かさず繰りつづけられるのであった。私の家の女中も加藤家と私の家とをいつも比較していると見えて、
「あたくし結婚するときには、あんな旦那《だんな》様と結婚したいと思いますわ」
とふと家内に洩《もら》したことがあった。八百屋の老主婦ばかりではなく、私の家の女中も朝ペタルを踏んで出て行く高次郎氏には、丁寧にお辞儀をするのを忘れない風だった。そのためもあろうか女中は塀《へい》の外の草ひきだけは毎朝早く忘れずにする癖も出来た。この女中は二年ほどして変ったが次に来た女中も、加藤夫妻の睦《むつま》じさには驚いたと見え、塀の外の草ひきだけはまめまめしく働いた。顔自慢で村の若者たちから騒がれたこともあるとかで、幾らか横着な性質だったから、ある日も家内に、
「あのう加藤さんところの奥さんは、やきもちやきですわね。さっきあそこの旦那さんのお出かけのとき、一寸《ちょっと》旦那さんに物を云いましたら、奥さんがじろっとあたしを睨《にら》むんですのよ」
とこの女中はさも面白そうな声で告げ口した。しかし、この女中も間もなく嫁入りをした。そのころになると、私の家の附近いったいの森はすべて截《き》り払われ、空地には私の家より大きな家が次ぎ次ぎに建ち出した。そのため予想のように加藤家はあるか無きかのごとき観を呈して窪《くぼ》んでいったが、夫妻の愛情の細やかさは、前と少しも変りはなかった。銭湯へ行くときでも二人は家の戸を閉め一緒に金盥《かなだらい》を持って出かけ、また並んで帰って来た。高次郎氏の役所からの帰りには必ず遠くまで夫人は出迎えにいっていた。小さな躑躅《つつじ》や金盞花《きんせんか》などの鉢植《はちうえ》が少しずつ増えた狭い庭で、
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