ばら》くして、彼は乱れた心を整えて妻の病室へ這入っていった。
妻は黙って彼の顔を見詰めていた。
「何か冬の花でもいらないか」
「あなた、泣いていたのね」と妻は云った。
「いや」
「そうよ」
「泣く理由がないじゃないか」
「もう分っていてよ。お医者さんが何か云ったの」
妻はそうひとり定めてかかると、別に悲しそうな顔もせずに黙って天井を眺め出した。彼は妻の枕元の籐椅子《とういす》に腰を下ろすと、彼女の顔を更《あらた》めて見覚えて置くようにじっと見た。
――もう直《す》ぐ、二人の間の扉は閉められるのだ。
――しかし、彼女も俺も、もうどちらもお互に与えるものは与えてしまった。今は残っているものは何物もない。
その日から、彼は彼女の云うままに機械のように動き出した。そうして、彼は、それが彼女に与える最後の餞別《せんべつ》だと思っていた。
或る日、妻はひどく苦しんだ後で彼に云った。
「ね、あなた、今度モルヒネを買って来てよ」
「どうするんだね」
「あたし、飲むの、モルヒネを飲むと、もう眼が覚めずにこのままずっと眠って了うんですって」
「つまり、死ぬことかい?」
「ええ、あたし、死ぬこと
前へ
次へ
全22ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング