びら》のようにがたがたと慄《ふる》えていた。もう彼は家の前に、大きな海のひかえているのを長い間忘れていた。
 或る日彼は医者の所へ妻の薬を貰いに行った。
「そうそう。もっと前からあなたに云おう云おうと思っていたんですが」
 と医者は云った。
「あなたの奥さんは、もう駄目ですよ」
「はア」
 彼は自分の顔がだんだん蒼ざめて行くのをはっきりと感じた。
「もう左の肺がありませんし、それに右も、もう余程進んでおります」
 彼は海浜に添って、車に揺られながら荷物のように帰って来た。晴れ渡った明るい海が、彼の顔の前で死をかくまっている単調な幕のように、だらりとしていた。彼はもうこのまま、いつまでも妻を見たくないと思った。もし見なければ、いつまでも妻が生きているのを感じていられるにちがいないのだ。
 彼は帰ると直ぐ自分の部屋へ這入《はい》った。そこで彼は、どうすれば妻の顔を見なくて済まされるかを考えた。彼はそれから庭へ出ると芝生の上へ寝転んだ。身体が重くぐったりと疲れていた。涙が力なく流れて来ると彼は枯れた芝生の葉を丹念にむしっていた。
「死とは何だ」
 ただ見えなくなるだけだ、と彼は思った。暫《し
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