びら》のようにがたがたと慄《ふる》えていた。もう彼は家の前に、大きな海のひかえているのを長い間忘れていた。
或る日彼は医者の所へ妻の薬を貰いに行った。
「そうそう。もっと前からあなたに云おう云おうと思っていたんですが」
と医者は云った。
「あなたの奥さんは、もう駄目ですよ」
「はア」
彼は自分の顔がだんだん蒼ざめて行くのをはっきりと感じた。
「もう左の肺がありませんし、それに右も、もう余程進んでおります」
彼は海浜に添って、車に揺られながら荷物のように帰って来た。晴れ渡った明るい海が、彼の顔の前で死をかくまっている単調な幕のように、だらりとしていた。彼はもうこのまま、いつまでも妻を見たくないと思った。もし見なければ、いつまでも妻が生きているのを感じていられるにちがいないのだ。
彼は帰ると直ぐ自分の部屋へ這入《はい》った。そこで彼は、どうすれば妻の顔を見なくて済まされるかを考えた。彼はそれから庭へ出ると芝生の上へ寝転んだ。身体が重くぐったりと疲れていた。涙が力なく流れて来ると彼は枯れた芝生の葉を丹念にむしっていた。
「死とは何だ」
ただ見えなくなるだけだ、と彼は思った。暫《しばら》くして、彼は乱れた心を整えて妻の病室へ這入っていった。
妻は黙って彼の顔を見詰めていた。
「何か冬の花でもいらないか」
「あなた、泣いていたのね」と妻は云った。
「いや」
「そうよ」
「泣く理由がないじゃないか」
「もう分っていてよ。お医者さんが何か云ったの」
妻はそうひとり定めてかかると、別に悲しそうな顔もせずに黙って天井を眺め出した。彼は妻の枕元の籐椅子《とういす》に腰を下ろすと、彼女の顔を更《あらた》めて見覚えて置くようにじっと見た。
――もう直《す》ぐ、二人の間の扉は閉められるのだ。
――しかし、彼女も俺も、もうどちらもお互に与えるものは与えてしまった。今は残っているものは何物もない。
その日から、彼は彼女の云うままに機械のように動き出した。そうして、彼は、それが彼女に与える最後の餞別《せんべつ》だと思っていた。
或る日、妻はひどく苦しんだ後で彼に云った。
「ね、あなた、今度モルヒネを買って来てよ」
「どうするんだね」
「あたし、飲むの、モルヒネを飲むと、もう眼が覚めずにこのままずっと眠って了うんですって」
「つまり、死ぬことかい?」
「ええ、あたし、死ぬことなんか一寸も恐《こわ》かないわ。もう死んだら、どんなにいいかしれないわ」
「お前も、いつの間にか豪《えら》くなったものだね。そこまで行けば、もう人間もいつ死んだって大丈夫だ」
「でも、あたしね、あなたに済まないと思うのよ。あなたを苦しめてばっかりいたんですもの。御免なさいな」
「うむ」と彼は云った。
「あたし、あなたのお心はそりゃよく分っているの。だけど、あたし、こんなに我ままを云ったのも、あたしが云うんじゃないわ。病気が云わすんだから」
「そうだ。病気だ」
「あたしね、もう遺言も何も書いてあるの。だけど、今は見せないわ。あたしの床の下にあるから、死んだら見て頂戴《ちょうだい》」
彼は黙って了った。――事実は悲しむべきことなのだ。それに、まだ悲しむべきことを云うのは、やめて貰いたいと彼は思った。
花壇の石の傍で、ダリヤの球根が掘り出されたまま霜に腐っていった。亀に代ってどこからか来た野の猫が、彼の空《あ》いた書斎の中をのびやかに歩き出した。妻は殆ど終日苦しさのために何も云わずに黙っていた。彼女は絶えず、水平線を狙《ねら》って海面に突出している遠くの光った岬ばかりを眺めていた。
彼は妻の傍で、彼女に課せられた聖書を時々読み上げた。
「エホバよ、願くば忿恚《いきどおり》をもて我をせめ、烈《はげ》しき怒りをもて懲《こ》らしめたもうなかれ。エホバよ、われを憐《あわ》れみたまえ、われ萎《しぼ》み衰うなり。エホバよわれを医《いや》したまえ、わが骨わななき震う。わが霊魂《たましい》さえも甚《いた》くふるいわななく。エホバよ、かくて幾その時をへたもうや。死にありては汝《なんじ》を思い出《い》ずることもなし」
彼は妻の啜《すす》り泣くのを聞いた。彼は聖書を読むのをやめて妻を見た。
「お前は、今何を考えていたんだね」
「あたしの骨はどこへ行くんでしょう。あたし、それが気になるの」
――彼女の心は、今、自分の骨を気にしている。――彼は答えることが出来なかった。
――もう駄目だ。
彼は頭を垂れるように心を垂れた。すると、妻の眼から涙が一層激しく流れて来た。
「どうしたんだ」
「あたしの骨の行き場がないんだわ。あたし、どうすればいいんでしょう」
彼は答えの代りにまた聖書を急いで読み上げた。
「神よ、願くば我を救い給え。大水ながれ来《きた》りて我たましいにまで及べり。われ立止
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