ると思った。してみると彼は、妻の健康の肉体よりも、この腐った肺臓を持ち出した彼女の病体の方が、自分にとってはより幸福を与えられていると云うことに気がついた。
 ――これは新鮮だ。俺はもうこの新鮮な解釈によりすがっているより仕方がない。
 彼はこの解釈を思い出す度に、海を眺めながら、突然あはあはと大きな声で笑い出した。
 すると、妻はまた、檻の中の理論を引き摺《ず》り出して苦々しそうに彼を見た。
「いいわ、あたし、あなたが何ぜ笑ったのかちゃんと知ってるんですもの」
「いや、俺はお前がよくなって、洋装をきたがって、ぴんぴんはしゃがれるよりは、静に寝ていられる方がどんなに有難いかしれないんだ。第一、お前はそうしていると、蒼《あお》ざめていて、気品がある。まア、ゆっくり寝ていてくれ」
「あなたは、そう云う人なんだから」
「そう云う人なればこそ、有難がって看病が出来るのだ」
「看病看病って、あなたは二言目には看病を持ち出すのね」
「これは俺の誇りだよ」
「あたし、こんな看病なら、して欲しかないの」
「ところが、俺が譬《たと》えば三分間向うの部屋へ行っていたとする。すると、お前は三日も抛《ほ》ったらかされたように云うではないか、さア、何とか返答してくれ」
「あたしは、何も文句を云わずに、看病がして貰いたいの。いやな顔をされたり、うるさがられたりして看病されたって、ちっとも有難いと思わないわ」
「しかし、看病と云うのは、本来うるさい性質のものとして出来上っているんだぜ」
「そりゃ分っているわ。そこをあたし、黙ってして貰いたいの」
「そうだ、まあ、お前の看病をするためには、一族郎党を引きつれて来ておいて、金を百万円ほど積みあげて、それから、博士を十人ほどと、看護婦を百人ほどと」
「あたしは、そんなことなんかして貰いたかないの、あたし、あなた一人にして貰いたいの」
「つまり、俺が一人で、十人の博士の真似と、百人の看護婦と、百万円の頭取の真似をしろって云うんだね」
「あたし、そんなことなんか云ってやしない。あたし、あなたにじっと傍にいて貰えば安心出来るの」
「そら見ろ、だから、少々は俺の顔が顰《ゆが》んだり、文句を云ったりする位は我慢しろ」
「あたし、死んだら、あなたを怨《うら》んで怨んで怨んで、そして死ぬの」
「それ位のことなら、平気だね」
 妻は黙って了った。しかし、妻はまだ何か彼に斬《き》りつけたくてならないように、黙って必死に頭を研《と》ぎ澄しているのを彼は感じた。
 しかし彼は、彼女の病勢を進ます彼自身の仕事と生活のことを考えねばならなかった、だが、彼は妻の看病と睡眠の不足から、だんだんと疲れて来た。彼は疲れれば疲れるほど、彼の仕事が出来なくなるのは分っていた。彼の仕事が出来なければ出来ないほど、彼の生活が困り出すのも定《きま》っていた。それにも拘《かかわ》らず、昂進《こうしん》して来る病人の費用は、彼の生活の困り出すのに比例して増して来るのは明《あきら》かなことであった。然《しか》も、なお、いかなることがあろうとも、彼がますます疲労して行くことだけは事実である。
 ――それなら俺は、どうすれば良いのか。
 ――もうここらで俺もやられたい。そうしたら、俺は、なに不足なく死んでみせる。
 彼はそう思うことも時々あった。しかし、また彼は、この生活の難局をいかにして切り抜けるか、その自分の手腕を一度はっきり見たくもあった。彼は夜中起されて妻の痛む腹を擦《さす》りながら、
「なお、憂きことの積れかし、なお憂きことの積れかし」
 と呟《つぶや》くのが癖になった。ふと彼はそう云う時、茫々《ぼうぼう》とした青い羅紗《らしゃ》の上を、撞《つ》かれた球《たま》がひとり飄々《ひょうひょう》として転がって行くのが目に浮んだ。
 ――あれは俺の玉だ、しかし、あの俺の玉を、誰がこんなに出鱈目《でたらめ》に突いたのか。
「あなた、もっと、強く擦ってよ、あなたは、どうしてそう面倒臭がりになったのでしょう。もとはそうじゃなかったわ。もっと親切に、あたしのお腹《なか》を擦って下さったわ。それだのに、この頃は、ああ痛、ああ痛」と彼女は云った。
「俺もだんだん疲れて来た。もう直ぐ、俺も参るだろう。そうしたら、二人がここで呑気《のんき》に寝転んでいようじゃないか」
 すると、彼女は急に静になって、床の下から鳴き出した虫のような憐れな声で呟いた。
「あたし、もうあなたにさんざ我ままを云ったわね。もうあたし、これでいつ死んだっていいわ。あたし満足よ。あなた、もう寝て頂戴な。あたし我慢をしているから」
 彼はそう云われると、不覚にも涙が出て来て、撫《な》でてる腹の手を休める気がしなくなった。

 庭の芝生が冬の潮風に枯れて来た。硝子戸《ガラスど》は終日|辻馬車《つじばしゃ》の扉《と
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