ばかりいるんです」
「もう、そこらでやめてくれ。どちらも淋しいとしておこう。俺には締切りがある。今日書き上げないと、向うがどんなに困るかしれないんだ」
「どうせ、あなたはそうよ。あたしより、締切りの方が大切なんですから」
「いや、締切りと云うことは、相手のいかなる事情をも退けると云う張り札なんだ。俺はこの張り札を見て引き受けて了った以上、自分の事情なんか考えてはいられない」
「そうよ、あなたはそれほど理智的なのよ。いつでもそうなの、あたし、そう云う理智的な人は、大嫌《だいきら》い」
「お前は俺の家の者である以上、他から来た張り札に対しては、俺と同じ責任を持たなければならないんだ」
「そんなもの、引き受けなければいいじゃありませんか」
「しかし、俺とお前の生活はどうなるんだ」
「あたし、あなたがそんなに冷淡になる位なら、死んだ方がいいの」
すると、彼は黙って庭へ飛び降りて深呼吸をした。それから、彼はまた風呂敷《ふろしき》を持って、その日の臓物を買いにこっそりと町の中へ出かけていった。
しかし、この彼女の「檻の中の理論」は、その檻に繋《つな》がれて廻っている彼の理論を、絶えず全身的な興奮をもって、殆ど間髪《かんはつ》の隙間《すきま》をさえも洩《も》らさずに追っ駈けて来るのである。このため彼女は、彼女の檻の中で製造する病的な理論の鋭利さのために、自身の肺の組織を日日加速度的に破壊していった。
彼女の曾《かつ》ての円く張った滑《なめ》らかな足と手は、竹のように痩《や》せて来た。胸は叩《たた》けば、軽い張子のような音を立てた。そうして、彼女は彼女の好きな鳥の臓物さえも、もう振り向きもしなくなった。
彼は彼女の食慾をすすめるために、海からとれた新鮮な魚の数々を縁側に並べて説明した。
「これは鮟鱇《あんこ》で踊り疲れた海のピエロ。これは海老《えび》で車海老、海老は甲冑《かっちゅう》をつけて倒れた海の武者。この鰺《あじ》は暴風で吹きあげられた木の葉である」
「あたし、それより聖書を読んでほしい」と彼女は云った。
彼はポウロのように魚を持ったまま、不吉な予感に打たれて妻の顔を見た。
「あたし、もう何も食べたかないの、あたし、一日に一度ずつ聖書を読んで貰いたいの」
そこで、彼は仕方なくその日から汚《よご》れたバイブルを取り出して読むことにした。
「エホバよわが祈りをききたま
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