え。願くばわが号呼《さけび》の声の御前にいたらんことを。わが窮苦《なやみ》の日、み顔を蔽《おお》いたもうなかれ。なんじの耳をわれに傾け、我が呼ぶ日にすみやかに我にこたえたまえ。わがもろもろの日は煙のごとく消え、わが骨は焚木《たきぎ》のごとく焚《やか》るるなり。わが心は草のごとく撃《うた》れてしおれたり。われ糧《かて》をくらうを忘れしによる」
しかし、不吉なことはまた続いた。或る日、暴風の夜が開けた翌日、庭の池の中からあの鈍い亀が逃げて了っていた。
彼は妻の病勢がすすむにつれて、彼女の寝台の傍からますます離れることが出来なくなった。彼女の口から、痰《たん》が一分毎に出始めた。彼女は自分でそれをとることが出来ない以上、彼がとってやるよりとるものがなかった。また彼女は激しい腹痛を訴え出した。咳《せき》の大きな発作が、昼夜を分《わか》たず五回ほど突発した。その度に、彼女は自分の胸を引っ掻《か》き廻して苦しんだ。彼は病人とは反対に落ちつかなければならないと考えた。しかし、彼女は、彼が冷静になればなるほど、その苦悶の最中に咳を続けながら彼を罵《ののし》った。
「人の苦しんでいるときに、あなたは、あなたは、他《ほか》のことを考えて」
「まア、静まれ、いま呶鳴《どな》っちゃ」
「あなたが、落ちついているから、憎らしいのよ」
「俺が、今|狼狽《あわ》てては」
「やかましい」
彼女は彼の持っている紙をひったくると、自分の啖を横なぐりに拭《ふ》きとって彼に投げつけた。
彼は片手で彼女の全身から流れ出す汗を所を択《えら》ばず拭きながら、片手で彼女の口から咳出す啖を絶えず拭きとっていなければならなかった。彼の蹲《しゃが》んだ腰はしびれて来た。彼女は苦しまぎれに、天井を睨《にら》んだまま、両手を振って彼の胸を叩き出した。汗を拭きとる彼のタオルが、彼女の寝巻にひっかかった。すると、彼女は、蒲団《ふとん》を蹴《け》りつけ、身体をばたばた波打たせて起き上ろうとした。
「駄目だ、駄目だ、動いちゃ」
「苦しい、苦しい」
「落ちつけ」
「苦しい」
「やられるぞ」
「うるさい」
彼は楯《たて》のように打たれながら、彼女のざらざらした胸を撫《な》で擦《さす》った。
しかし、彼はこの苦痛な頂天に於てさえ、妻の健康な時に彼女から与えられた自分の嫉妬《しっと》の苦しみよりも、寧《むし》ろ数段の柔かさがあ
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