に村には下駄屋が一軒もないし。」
 ここまで父親が言うと、今まで心配そうに黙っていた母親は、
「それが好い。あの子は身体が弱いから遠くへやりたくない。」といった。
 間もなく吉は下駄屋になった。
 吉の作った仮面は、その後、彼の店の鴨居《かもい》の上で絶えず笑っていた。無論何を笑っているのか誰も知らなかった。
 吉は二十五年仮面の下で下駄をいじり続けて貧乏した。無論、父も母も亡くなっていた。
 或る日、吉は久しぶりでその仮面を仰《あお》いで見た。すると仮面は、鴨居の上から馬鹿にしたような顔をしてにやりと笑った。吉は腹が立った。次に悲しくなった。が、また腹が立って来た。
「貴様のお蔭《かげ》で俺《おれ》は下駄屋になったのだ!」
 吉は仮面を引きずり降ろすと、鉈《なた》を振るってその場で仮面を二つに割った。暫くして、彼は持ち馴れた下駄の台木《だいぎ》を眺めるように、割れた仮面を手にとって眺めていた。が、ふと何んだかそれで立派な下駄が出来そうな気がして来た。すると間もなく、吉の顔はもとのように満足そうにぼんやりと柔《やわら》ぎだした。



底本:「日輪・春は馬車に乗って 他八篇」岩波文庫、
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