ただ汗が流れるばかりで結局身体はもとの道の上から動いていなかった。けれどもその大きな顔は、だんだん吉の方へ近よって来るのは来るが、さて吉をどうしようともせず、何時《いつ》までたってもただにやりにやりと笑っていた。何を笑っているのか吉にも分からなかった。がとにかく彼を馬鹿にしたような笑顔《えがお》であった。
 翌朝、蒲団《ふとん》の上に坐って薄暗い壁を見詰《みつ》めていた吉は、昨夜夢の中で逃げようとして藻掻《もが》いたときの汗を、まだかいていた。
 その日、吉は学校で三度教師に叱られた。
 最初は算術の時間で、仮分数を帯分数に直した分子の数を訊《き》かれた時に黙っていると、
「そうれ見よ。お前はさっきから窓ばかり眺めていたのだ。」と教師に睨《にら》まれた。
 二度目の時は習字の時間である。その時の吉の草紙《そうし》の上には、字が一字も見あたらないで、宮の前の高麗狗《こまいぬ》の顔にも似ていれば、また人間の顔にも似つかわしい三つの顔が書いてあった。そのどの顔も、笑いを浮かばせようと骨折った大きな口の曲線が、幾度も書き直されてあるために、真っ黒くなっていた。
 三度目の時は学校の退《ひ》けるときで、皆の学童が包を仕上げて礼をしてから出ようとすると、教師は吉を呼び止めた。そして、もう一度礼をし直せと叱った。
 家へ走り帰ると直ぐ吉は、鏡台の抽出《ひきだし》から油紙に包んだ剃刀《かみそり》を取り出して人目につかない小屋の中でそれを研《と》いだ。研ぎ終ると軒へ廻って、積み上げてある割木を眺めていた。それからまた庭に這入《はい》って、餅搗《もちつ》き用の杵《きね》を撫でてみた。が、またぶらぶら流し元まで戻って来ると俎《まないた》を裏返してみたが急に彼は井戸傍《いどばた》の跳《は》ね釣瓶《つるべ》の下へ駆《か》け出《だ》した。
「これは甘《うま》いぞ、甘いぞ。」
 そういいながら吉は釣瓶の尻の重りに縛《しば》り付《つ》けられた欅《けやき》の丸太《まるた》を取りはずして、その代わり石を縛り付けた。
 暫《しばら》くして吉は、その丸太を三、四|寸《すん》も厚味のある幅広い長方形のものにしてから、それと一緒に鉛筆と剃刀とを持って屋根裏へ昇っていった。
 次の日もまたその次の日も、そしてそれからずっと吉は毎日同じことをした。
 ひと月もたつと四月が来て、吉は学校を卒業した。
 しかし、少し
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