発展を、いちじるしく遅らせてしまった。そうして、文学者たちは、純文学の衰微がどこに原因していたかを探り始めて、最後に気附いたことは、通俗小説を軽蔑《けいべつ》して来た自身の低俗さに思いあたらねばならなくなったのであるが、そのときには、最早遅い。身中には自意識の過剰という、どうにも始末のつかぬ現代的特長の新しい自我の襲来を受けて、立ち上ることが不可能になっていた。このとき、文学を本道にひき上げる運動が、諸々方々から起って来たのは、理由なきことではあるまい。文芸復興は、まだこれからなのである。
文芸を復興させねばならぬと説く主張をさまざま私は眺めて来たが、具体的な説はまだ見たことがなかった。文芸を復興させる精神の問題は、今ここで触れずに他日にゆずるが、本年に這入《はい》って旺《さか》んになった能動精神といい、浪曼主義というのも、云い出さねばおられぬ多くの原因の潜んでいることは、何人も認めねばなるまい。しかし、これらの主張も皆それらは純粋小説論の後から起るべき問題であって、今、純粋小説を等閑《なおざり》にして文学としての能動主義も浪曼主義も、意味をなさぬと思う。その理由は、前にも述べた現代的特長であるところの、智識階級の自意識過剰の問題が横《よこたわ》っているからであるが、いったい、浪曼主義と云い、能動主義を云う人々で、一番に解決困難な自意識の問題を取り扱った人々を、かつて私は見たことがない。この難問に何らかの態度を決めずに、どのような浪曼主義や、能動主義を主張しようとするのであろうか、疑問は誰にも残らざるを得ないのだ。一例を云えば、ここ三四年来|捲《ま》き起って来ていた心理の問題にしても、道徳の問題にしても、理智の問題にしても、すべてが智識階級最後の、しかも一番重要な問題ばかりであったのだが、浪曼主義も能動主義も、これらの問題から切り放れて、簡単に進行出来るものなら、それらは茶番にすぎまい。恐らく、今後いくらかの時間をへて必ず起って来るにちがいない真の浪曼主義や能動主義の文学は、心理主義の中から起って来るか、真理主義としての実証主義の中からか、個人道徳の追求の中から起って来るか、理知主義の中から起って来るか、どちらかにちがいあるまいと思うが、それがそうではなくて、ただどうしようもない感傷主義の中から、起って来たかのように見誤られる浪曼主義や、能動主義なら、むしろ消えるがために泡立ち上った前ぶれと見られても、仕方がないのである。わが国に現れた文学運動の最初は、いつもそのような運命に出逢《であ》っているのだ。多分、今現れている能動主義も、今後起って来る浪曼主義の運動の中へ、一つに溶け込む運命的な剰余を当然持っていると見られるが、その浪曼主義にしてからが、法則主義への適合と、法則への反抗との、二つに分裂している状態であってみれば、いずれも実証主義への介意から出発した挙動と見ても、さし閊《つか》えはないであろう。けれども、それはともかく、浪漫主義《ろうまんしゅぎ》である以上は、何らかの意味に於ける旧リアリズムへの反抗であり、新しいリアリズムの創造であるべき筈《はず》だ。メルヘン的な青い花の開花は、逃げ口上の諦念主義《ていねんしゅぎ》と変化しても、悪政治の強力なときとしては致し方もあるまいが、しかし、いずれも新しいリアリズムの創造であるからは、法則に反抗した実証主義としての新しい浪曼主義がシェストフの思想となって流れて来た昨今の文壇面では、それと必然的に関聯《かんれん》する自意識の整理方法として必ずいまに起って来る新浪曼主義に転ぜずにはおられまい。能動主義も、作家が何かせずにはいられない衝動主義と見ても、我ら何をなすべきかを探索する精神であってみれば、知識階級を釘付《くぎづ》けにした道徳と理智との抗争問題の起点となるべき、自意識の整理に向わなければ、恐らく何事も今はなし得られるものでもない。純粋小説の問題はこのようなときに、それらの表現形式として、当然現れねばならぬ新しいリアリズムの問題である。今、諸々の文学機関に現れている通俗小説と純文学との問題は、すべて純粋小説論であることはさして不思議ではないのである。
中島健蔵氏の通俗小説と純文学の説論、阿部知二氏の純文学の普及化問題、深田久弥氏の純文学の拡大論、川端康成氏の文壇改革論、広津和郎氏、久米正雄氏、木村毅氏、上司小剣氏、大佛次郎氏、等の通俗小説の高級化説、岡田三郎氏の二元論、豊田三郎氏の俗化論、これらはすべて、私の見たところでは、純粋小説論であるが、それらの人々は、すべて実際的な見地に立って、それぞれの立場から、純粋小説を書くために起る共通した利益にならぬ苦痛を取り除く主張であると見えても、さし閊《つか》えはないのである。それらは通俗小説を書けというのでは勿論《もちろん》ない。現代の日本文学を、少くとも第一流の世界小説に近づける高級化論であって、先《ま》ず通俗への合同低下の企劃《きかく》と思い間違える低俗との、戦いとなって現れて来たのである。そうして、今はこの問題の通過なくして、文芸復興のどこから着手すべきものか私は知らない。恐らく、この現れは困難多岐な道をとることと思うが、作家共通の苦痛を除くためには、是非とも緊急なことであって、それなればこそ異口同音の説が形を変えて湧《わ》き興って来たと見るべきで、私は新人として現れるものなら、主義流派はともかくも少くとも純粋小説をもって現れなければ意義がないと思うばかりでなく、旧人といえども、純粋小説に関心なくして、今後の成長打開の道はあるまいと思う。
ここで少し私は自分の純粋小説論を簡単に書いてみたい。今までのべて来たところの事は、誰にでも通じることであったが、以下書くことは、現代小説を書こうと試みた人でなければ興味のない部分に触れると思う。――今までの日本の純文学に現れた小説というものは、作者が、おのれひとり物事を考えていると思って生活している小説である。少くとも、もしそれが作者でなければ、その作中に現れたある一人物ばかりが、自分こそ物事を考えていると人々に思わす小説であって、多くの人々がめいめい勝手に物事を考えているという世間の事実には、盲目同然であった。もしこのようなときに、眼に見えた世間の人物も、それぞれ自分同様に、勝手気儘《かってきまま》に思うだけは思って生活しているものだと分って来ると、突然、今までの純文学の行き方が、どんなに狭小なものであったかということに気づいて来るのである。もしそれに気がつけば、早や、日記文学の延長の日本的記述リアリズムでは、一人の人物の幾らかの心理と活動とには役には立とうが大部分の人間の役には立たなくなるのである。前にものべたように、人々が、めいめい勝手に物事を考えていることが事実であり、作中に現れた幾人かの人物も、同様に自分一人のようには物事を思うものでないと作者が気附いたとき、それなら、ただ一人よりいない作者は、いったいいかなるリアリズムを用いたら良いのであろうか。このとき、作者は、万難を切りぬけて、ともかく一応は幾人もの人間と顔を合せ、そうして、それらの人物の思うところをある関聯に於てとらえ、これを作者の思想と均衡させつつ、中心に向って集中して行かねばならぬ。このような小説構造の最因難な中で、一番作者に役立つものは、それは観察でもなければ、霊感でもなく、想像力でもない。スタイルという音符ばかりのものである。しかし、この音符を連ねる力は、ただ一つ作者の思想である。思想といっても、この思想を抽象的なものに考えたり、公式主義的な思考と考えるようなものには、アランの云ったように思想の何ものをも掴《つか》めないにちがいはないが、登場人物各人の尽《ことごと》くの思う内部を、一人の作者が尽く一人で掴むことなど不可能事であってみれば、何事か作者の企画に馳《は》せ参ずる人物の廻転面《かいてんめん》の集合が、作者の内部と相関関係を保って進行しなければならぬ。このときその進行過程が初めて思想というある時間になる。けれども、ここに、近代小説にとっては、ただそればかりでは赦《ゆる》されぬ面倒な怪物が、新しく発見せられて来たのである。その怪物は現実に於て、着々有力な事実となり、今までの心理を崩し、道徳《モラル》を崩し、理智を破り、感情を歪《ゆが》め、しかもそれらの混乱が新しい現実となって世間を動かして来た。それは自意識という不安な精神だ。この「自分を見る自分」という新しい存在物としての人称が生じてからは、すでに役に立たなくなった古いリアリズムでは、一層役に立たなくなって来たのは、云うまでもないことだが、不便はそれのみにはあらずして、この人々の内面を支配している強力な自意識の表現の場合に、幾らかでも真実に近づけてリアリティを与えようとするなら、作家はも早や、いかなる方法かで、自身の操作に適合した四人称の発明工夫をしない限り、表現の方法はないのである。もうこのようになれば、どんな風に藻掻《もが》こうと、短篇《たんぺん》では作家はただ死ぬばかりだ。純粋小説論の起って来たのは、すべてがこの不安に源を発していると思う。「すべて美しきものを」と浪曼主義者は云う。しかし、現代のように、一人の人間が人としての眼と、個人としての眼と、その個人を見る眼と、三様の眼を持って出現し始め、そうしてなお且《か》つ作者としての眼さえ持った上に、しかもただ一途《いちず》に頼んだ道徳や理智までが再び分解せられた今になって、何が美しきものであろうか。われわれの最大の美しい関心事は、人間活動の中の最も高い部分に位置する道徳と理智とを見脱《みのが》して、どこにも美しさを求めることが出来ぬ。「われら何をなすべきか」と能動主義者は云う。しかし、いかに分らぬとはいえ、近代個人の道徳と理智との探索を見捨てて、われら何をなすべきであるのか。けれども、ここに作家の楽しみが新しく生れて来たのである。それはわれわれには、四人称の設定の自由が赦されているということだ。純粋小説はこの四人称を設定して、新しく人物を動かし進める可能の世界を実現していくことだ。まだ何人《なんぴと》も企てぬ自由の天地にリアリティを与えることだ。新しい浪曼主義は、ここから出発しなければ、創造は不可能である。しかも、ただ単に創造に関する事ばかりではない。どんなに着実非情な実証主義者といえども、法則愛玩《ほうそくあいがん》の理由を、おのれの理智と道徳とのいずれからの愛玩とも決定を与えぬ限り、人としての眼も、個人としての自分の眼も、自分を見る自分の眼も、容赦なくふらつくのだ。私はこの眼のふらつかぬものを、まだそんなに見たことがない。いったい、われわれの眼は、理智と道徳の前まで来ると、何ぜふらつくのであろう。純粋小説の内容は、このふらつく眼の、どこを眼ざしてふらつくか、何が故にふらつくかを索《さぐ》ることだ。これが純粋小説の思想であり、そうして、最高の美しきものの創造である。も早やここに来れば、通俗小説とか、純文学とか、これらの馬鹿馬鹿しい有名無実の議論は、万事何事でもない。
しかし、純粋小説に関して、なお細《こまか》い説明をつけようとすれば、ここにまた次の新しい技術の問題が現れて来なければならぬ。それは自然の中に現れる人物(人間)というものは、どこからどこまでが小説的人物であるかという、残しておいたまことに厄介な解釈である。純粋小説論は哲学とここの所で一致して進むべきものと思うが、しかし同時にここから、技術の問題として、袂《たもと》を分けて進まねばならぬ。私は話意を明瞭《めいりょう》にするために、前からのべて来たところをしばらく重複させねばならぬが、いったい、人間は存在しているだけでは人間ではない。それは行為をし、思考をする。このとき、人間にリアリティを与える最も強力なものは、人間の行為と思考の中間の何ものであろうかと思い煩う技術精神に、作者は決定を与えなければならぬ。しかも、一人の人間に於ける行為と思考との中間は、何物であろうか。この一番に重要な、一番に不明確な「場所」に、ある何ものかと
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