現れて活動する世の中であってみれば、さらにそれらの偶然の集合は大偶然となって、日常いたる所にひしめき合っているのである。これが近代人の日常性であり必然性であるが、このようにして、人間活動の真に迫れば迫るほど、人間の活動というものは、実に瞠目《どうもく》するほど通俗的な何物かで満ちているとすれば、この不思議な秘密と事実を、世界の一流の大作家は見逃がす筈《はず》はないのである。しかも彼らは、この通俗的な人間の面白さを、その面白さのままに近づけて真実に書けば書くほど、通俗ではなくなったのだ。そうして、このとき、卑怯《ひきょう》な低劣さでもって、この通俗を通俗として恐れ、その真実であり必然である人間性の通俗から遠ざかれば遠ざかるに従って、その意志とは反対に通俗になっているという逆説的な人間描法の魔術に落ち込んだ感傷家が、われわれ日本の純文学の作家であったのだ。この感傷の中から一流小説の生れる理由がない。しかし、も早やこの感傷は赦《ゆる》されぬのだ。われわれは真の通俗を廃しなければならぬ。そのためには、何より人間活動の通俗を恐れぬ精神が必要なのだ。純粋小説は、この断乎《だんこ》とした実証主義的な
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