るがために泡立ち上った前ぶれと見られても、仕方がないのである。わが国に現れた文学運動の最初は、いつもそのような運命に出逢《であ》っているのだ。多分、今現れている能動主義も、今後起って来る浪曼主義の運動の中へ、一つに溶け込む運命的な剰余を当然持っていると見られるが、その浪曼主義にしてからが、法則主義への適合と、法則への反抗との、二つに分裂している状態であってみれば、いずれも実証主義への介意から出発した挙動と見ても、さし閊《つか》えはないであろう。けれども、それはともかく、浪漫主義《ろうまんしゅぎ》である以上は、何らかの意味に於ける旧リアリズムへの反抗であり、新しいリアリズムの創造であるべき筈《はず》だ。メルヘン的な青い花の開花は、逃げ口上の諦念主義《ていねんしゅぎ》と変化しても、悪政治の強力なときとしては致し方もあるまいが、しかし、いずれも新しいリアリズムの創造であるからは、法則に反抗した実証主義としての新しい浪曼主義がシェストフの思想となって流れて来た昨今の文壇面では、それと必然的に関聯《かんれん》する自意識の整理方法として必ずいまに起って来る新浪曼主義に転ぜずにはおられまい。能動主義
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