、ただに表現と生活との中間のみの深淵とは限らず、生活に於ける人間の深淵と、それを表現した場合に於ける深淵と、三重に複合して来るのであってみれば、小量の短篇では、よほどの大天才といえども、純粋小説を書くということは不可能なことになって来る。なおその上に、純粋小説としての思想の肉化を企てねば、高貴な現代文学が望めないとするなら、なおさら、百枚や二百枚の短篇ではどうするわけにもいかない。
しかし、ここで、一度小説というものの、生い立ちを考えて見るべき用が起って来る。私は純粋小説は、今までの純文学の作品を高めることではなく、今までの通俗小説を高めたものだと思う方が強いのであるが、しかし、それも一概にそのようには云い切れないところがあるので、純文学にして通俗小説というような、一番に誤解される代りに、聡明《そうめい》な人には直ちに理解せられる云い方をしてみたのだけれども、それはさておき、近代小説の生成というものは、その昔、物語を書こうとした意志と、日記を書きつけようとした意志とが、別々に成長して来て、裁判の方法がつかなくなったところへもって、物語を書くことこそ文学だとして来て迷わなかった創造的な精神が、通俗小説となって発展し、その反対の日記を書く随筆趣味が、純文学となって、自己身辺の事実のみまめまめしく書きつけ、これこそ物語にうつつをぬかすがごとき野鄙《やひ》な文学ではないと高くとまり、最も肝要な可能の世界の創造ということを忘れてしまって、文体まで日記随筆の文体のみを、われわれに残してくれたのである。ここに、若い純文学者の心的革命が当然起らずにはいられぬ原因がひそんでいて、純文学の正統は日記文学か、それとも通俗小説か、そのどちらかという疑問が起って来た。リアリズムと浪曼主義の問題の根柢《こんてい》も、実はここにあって、私などは初めから浪曼主義の立場を守り小説は可能の世界の創造でなければ、純粋小説とはなり得ないと思う方であるのだが、しかし、純文学が、物語を書こうとするこの通俗小説の精神を失わずに、一方日記文学の文体や精神をとり入れようとしているうちに、いつの間にか、その健康な小説の精神は徐々として、事実の報告のみにリアリティを見出すという錯覚に落ち込んで来たのである。この病勢は、さながら季節の推移のように、根強く襲って来ていたために、物語を構成する小説本来の本格的なリアリズムの発展を、いちじるしく遅らせてしまった。そうして、文学者たちは、純文学の衰微がどこに原因していたかを探り始めて、最後に気附いたことは、通俗小説を軽蔑《けいべつ》して来た自身の低俗さに思いあたらねばならなくなったのであるが、そのときには、最早遅い。身中には自意識の過剰という、どうにも始末のつかぬ現代的特長の新しい自我の襲来を受けて、立ち上ることが不可能になっていた。このとき、文学を本道にひき上げる運動が、諸々方々から起って来たのは、理由なきことではあるまい。文芸復興は、まだこれからなのである。
文芸を復興させねばならぬと説く主張をさまざま私は眺めて来たが、具体的な説はまだ見たことがなかった。文芸を復興させる精神の問題は、今ここで触れずに他日にゆずるが、本年に這入《はい》って旺《さか》んになった能動精神といい、浪曼主義というのも、云い出さねばおられぬ多くの原因の潜んでいることは、何人も認めねばなるまい。しかし、これらの主張も皆それらは純粋小説論の後から起るべき問題であって、今、純粋小説を等閑《なおざり》にして文学としての能動主義も浪曼主義も、意味をなさぬと思う。その理由は、前にも述べた現代的特長であるところの、智識階級の自意識過剰の問題が横《よこたわ》っているからであるが、いったい、浪曼主義と云い、能動主義を云う人々で、一番に解決困難な自意識の問題を取り扱った人々を、かつて私は見たことがない。この難問に何らかの態度を決めずに、どのような浪曼主義や、能動主義を主張しようとするのであろうか、疑問は誰にも残らざるを得ないのだ。一例を云えば、ここ三四年来|捲《ま》き起って来ていた心理の問題にしても、道徳の問題にしても、理智の問題にしても、すべてが智識階級最後の、しかも一番重要な問題ばかりであったのだが、浪曼主義も能動主義も、これらの問題から切り放れて、簡単に進行出来るものなら、それらは茶番にすぎまい。恐らく、今後いくらかの時間をへて必ず起って来るにちがいない真の浪曼主義や能動主義の文学は、心理主義の中から起って来るか、真理主義としての実証主義の中からか、個人道徳の追求の中から起って来るか、理知主義の中から起って来るか、どちらかにちがいあるまいと思うが、それがそうではなくて、ただどうしようもない感傷主義の中から、起って来たかのように見誤られる浪曼主義や、能動主義なら、むしろ消え
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