詩集『花電車』序
横光利一
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)杏《あんず》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]
−−
今まで、私は詩集を読んでゐて、涙が流れたといふことはない。しかし、稀らしい。私はこの「花電車」を読みながら涙が頬を伝って流れて来た。極暑の午後で、雨もなく微風もない。ひいやりと流れて来たのはひと条の涙だけ――ああこれは、おれの涙かなと私は思ひ、詩人の貌をしばらく遠空に描いてゐた。私はこの風顔が好きである。
私は戦争中一番愉しく眺めたのは、アンリ・ルッソオの絵だった。それも汚ならしく皺のよった、たった一枚の版画で、押入れの埃の底から出て来たものだ。私はぽんぽんと埃を払ひ、こんなところにこんな絵が、と、両手に支へ、証書を読むやうに眺めたり、壁へ両手で張りつけて、首を後ろへ引きつけて眺めたり、――私はアンリ・ルッソオの絵の広告を今ごろこゝでする用もないが、この花電車の中にはルッソオも伴に乗ってゐるからだ。
終戦になる一、二ヶ月前の時、私は焼野原になった東京から、東北地方の鶴岡といふ街へ
次へ
全5ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング