て。それから、皆の人にも。」
「ああ、ああ、心配しないでいいよ、もう直ぐ皆のものが来るよ。」と母はいった。
「あたし、まだ、待たなくちゃならないかしら。苦しいんだけど。」
「もう直ぐだよ。さっき、電話をかけたんだからね、もう直ぐなんだから。」
「あたし、さきへ死ぬわ、もう、苦しくって。」
「よしよし、安心してればいい。何も心配しなくてもいい。」と彼はいった。
 妻は頷くと眼を大きく開いたまま部屋の中を見廻した。一羽の鴉《からす》が、彼と母との啜《すす》り泣《な》く声に交えて花園の上で啼《な》き始めた。すると、彼の妻は、親しげな愛撫の微笑を洩らしながら咳《つぶや》いた。
「まア気の早い、鴉ね、もう啼いて。」
 彼は、妻の、その天晴《あっぱ》れ美事な心境に、呆然《ぼうぜん》としてしまった。彼はもう涙が出なかった。
「さようなら。」と暫くして妻はいった。
「うむ、さようなら。」と彼は答えた。
「キーボ、キーボ。」と母は呼んだ。
 しかし、彼女はもう答えなかった。彼女の呼吸は、ただ大きく吐き出す息ばかりになって来た。彼女の把握力は、刻々落ちていく顎《あご》の動きと一緒に、彼の掌《てのひら》の中で木のように弛《ゆる》んで来た。彼女は動きとまった。そうして、終《つい》に、死は、鮮麗な曙《あけぼの》のように、忽然《こつぜん》として彼女の面上に浮き上った。
 ――これだ。
 彼は暫く、その眼前に姿を現わした死の美しさに、見とれながら、恍惚《こうこつ》として突き立っていた。と、やがて彼は一枚の紙のようにふらふらしながら、花園の中へ降りていった。



底本:「日輪・春は馬車に乗って 他八篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年8月17日第1刷発行
底本の親本:「新選横光利一集」改造社
   1928(昭和3)年10月15日
初出:「改造」
   1927(昭和2)年2月号
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2008年1月23日作成
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