んだの。」と妻はいった。
「ああ、あれはお前だったのか。俺はバルコオンで、へんに胸がおかしくなった。」
「あなた、あたしの身体をちょっと上へ持ち上げて、何んだか、谷の底ヘ、落ちていくような気がするの。」
 彼は両手の上へ妻を乗せた。
「お前を抱いてやるのも久しぶりだ。そら、いいか。」
 彼は枕を上へ上げてから妻を静かに枕の方へ持ち上げた。
「何んと、お前は軽い奴だろう。まるで、こりゃ花束だ。」
 すると、妻は嬉しさに揺れるような微笑を浮べて彼にいった。
「あたし、あなたに、抱いてもらったのね、もうこれで、あたし、安心だわ。」
「俺もこれで安心した。さア、もう眠るといい。お前は夕べから、ちっとも眠っていないじゃないか。」
「あたし、どうしても眠れないの。あたし、今日は苦しくなければ、うんとお饒舌《しゃべり》したいんだけど。」
「いや、もう黙っているがいい、俺はここについていてやるから、眼だけでも瞑《つむ》っていれば休まるだろう。」
「じゃ、あたし、暫く眠ってみるわ。あなた、そこにいて頂戴。」
「うむ。」と彼はいった。
 妻が眼を閉じると、彼は明りを消して窓を開けた。樹《き》の揺れる音が風のように聞えて来た。月のない暗い花園の中を一人の年とった看護婦が憂鬱に歩いていた。彼は身も心も萎《しお》れていた。妻の母はベランダの窓|硝子《ガラス》に頬をあてて立ったまま、花園の中をぼんやりと眺めていた。もう何の成算も消え失《う》せてしまったように。遠くの病舎のカーテンの上で、動かぬ影が萎れていた。時々花壇の花の先端が、闇の中を探る無数の青ざめた手のように揺らめいた。

       十三

 その夜、満潮になると、彼の妻は激しく苦しみ出した。医者が来た。カンフルと食塩とリンゲルが交代に彼女の体内に火を点《つ》けた。しかし、もう、彼女は昨日の彼女のようにはならなかった。ただ最後に酸素吸入器だけが、彼女の枕元で、ぶくぶく泡を立てながら必死の活動をし始めた。
 彼は妻の上へ蔽《おお》い冠《かぶ》さるようにして、吸入器の口を妻の口の上へあてていた。――逃がしはせぬぞ、というかのように、妻の母は娘の苦しむ一息ごとに、顔を顰《しか》めて一緒に息を吐き出した。彼は時々、吸入器の口を妻の口の上から脱《はず》してみた。すると彼女は絶えだえな呼吸をして苦しんだ。
 ――いよいよだ。と彼は思った。
 もし吸入が永久に妻の苦痛を救うものなら、彼は永久にその口を持ち続けていたかった。だが、この眼前の事実のように、吸入がただ彼女の苦しみを続けるためばかりに役立っているのだと思うと、彼は彼女の生命を引きとめようとしている薬材よりも、今は、彼女の生命を縮めた漁場の魚に、始めて好意を持ちたくなった。しかし、医師は法医学に従って、冷然としてなお一本の注射を打とうといい始めた。ただ、生き残っているもののためのみに。
「いや、いや。」と彼の妻は彼より先に医師の言葉を遮《さえぎ》った。
「よしよし、じゃ、もう打つのは止《よ》そう。」
「あなた、もうあたし、駄目なんだから。」と妻はいった。
「いや、まだ、まだ。」
「あたし、苦しい。」
「うむ、もう直ぐ、癒《なお》る。大丈夫だ。」
「どうして、あたしを、死なしてくれないんだろう。」
「そんなことは、いうもんじゃない。」
「こんなに苦しいのに、まだあたしを、苦しめるつもりかしら。」
 今は、彼には彼女の死を希《ねが》う意志が怨《うら》めしかった。
「もうちょっとの辛抱《しんぼう》さ。直き苦しくなくなるよ。」
「あ、もう、あなたの顔が、見えなくなった。」と妻はいった。
 彼は暴風のように眼がくらんだ。妻は部屋の中を見廻しながら、彼の方へ手を出した。彼は、激しい愛情を、彼女の一本の手の中に殺到させた。
「しっかりしろ。ここにいるぞ。」
「うん。」と彼女は答えた。
 彼女の把握力が、生涯の力を籠《こ》めて、彼の手の中へ入り込んで来た。
「あなた、あたし、もう死んでよ。」と妻はいった。
「もうちょっと、待てないか。」と彼はいった。
「あたし、苦しいの。あなたより、さきに死んで、済まないわね。」
 彼は答えの代りに、声を上げて泣き出した。
「あなた、長い間、ほんとに済まなかったわ。御免《ごめん》してね。」
「俺も、お前に、長い間世話になって、すまなかった。」と彼は漸くいった。
 妻は顎《あご》をひいてしっかりと頷いた。
「あたしほど、幸福なものは、なかったわ。あなたは、ひとりぼっちに、なるんだわね。あたしが、死んだら、もうあなたのことを、するものが、誰もいなくなるんだわ。」
 萎れたマーガレットの花の傍から、彼女の母の泣き声が、歓声のように起った。
「キーボ、キーボ。」
「お母さんにもすまなかったわね。勘忍《かんにん》してね。兄さんにも、宜しくいっ
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