《くら》のように、虚無の中へ坐り込んだ。そうして、今は、二人は二人を引き裂く死の断面を見ようとしてただ互に暗い顔を覗《のぞ》き合《あわ》せているだけである。丁度、二人の眼と眼の間に死が現われでもするかのように。彼は食事の時刻が来ると、黙って匙《さじ》にスープを掬《すく》い、黙って妻の口の中へ流し込んだ。丁度、妻の腹の中に潜んでいる死に食物を与えるように。
 あるとき、彼は低い声でそっと妻に訊《たず》ねてみた。
「お前は、死ぬのが、ちょっとも怖《こわ》くはないのかね。」
「ええ。」と妻は答えた。
「お前は、もう生きたいとは、ちょっとも思わないのかね。」
「あたし、死にたい。」
「うむ。」と彼は頷《うなず》いた。
 二人には二人の心が硝子《ガラス》の両面から覗き合っている顔のようにはっきりと感じられた。

       三

 今は、彼の妻は、ただ生死の間を転っている一疋《いっぴき》の怪物だった。あの激しい熱情をもって彼を愛した妻は、いつの間にか尽《ことごと》く彼の前から消え失せてしまっていた。そうして、彼は? あの激しい情熱をもって妻を愛した彼は、今は感情の擦《す》り切《き》れた一個の機械となっているにすぎなかった。実際、この二人は、その互に受けた長い時間の苦痛のために、もう夫婦でもなければ人間でもなかった。二人の眼と眼を経だてている空間の距離には、ただ透明な空気だけが柔順に伸縮しているだけである。その二人の間の空気は死が現われて妻の眼を奪うまで、恐らく陽が輝けば明るくなり、陽が没すれば暗くなるに相違ない。二人にとって、時間は最早愛情では伸縮せず、ただ二人の眼と眼の空間に明暗を与える太陽の光線の変化となって、露骨に現われているだけにすぎなかった。それは静かな真空のような虚無であった。彼には横たわっている妻の顔が、その傍の薬台や盆のように、一個の美事な静物に見え始めた。
 彼は二人の間の空間をかつての生き生きとした愛情のように美しくするために、花壇の中からマーガレットや雛罌粟《ひなげし》をとって来た。その白いマーガレットは虚無の中で、ほのかに妻の動かぬ表情に笑を与えた。またあの柔かな雛罌粟が壺にささって微風に赤々と揺《ゆ》らめくと、妻はかすかな歎声を洩《もら》して眺めていた。この四角な部屋に並べられた壺や寝台や壁や横顔《プロフィール》や花々の静まった静物の線の中から、か
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