い。お前も、うまいことをしたもんさ。」
 妻は彼を見てかすかに笑い出した。
「あたし、ただ、もうちょっと、この苦しさが少なければ、生きていてもいいんだけど。」
「馬鹿な。生きていたって、仕様《しよう》がないじゃないか、いったい、これから、何をしようっていうんだ。もう俺もお前もするだけのことは、すっかりしてしまったじゃないか。思い出してみるがいい。」
「そうだわね。」と妻は言った。
「そうさ、もう大きな顔をして、死んでもいいよ。」
 妻は彼の顔から彼の心理の変化を見届けようとするように、黙って彼の顔を見詰めていた。
「お前は何だか淋しそうだ。お前のお母さんを、呼んでやろうか。」
「もういい、あなたが傍《そば》にいて下されば、あたし誰にも逢《あ》いたかない。」と妻はいった。
「そうか、じゃ、」と彼はいって直ぐ彼女の母に来るようにと手紙を書いた。

       八

 その翌日から妻の顔は急に水々しい水蜜《すいみつ》のような爽《さわや》かさを加えて来た。妻は絶えず、窓いっぱいに傾斜している山腹の百合《ゆり》の花を眺めていた。彼は部屋の壁々に彼女の母の代りに新しい花を差し添えた。シクラメンと百合の花。ヘリオトロオプと矢車草《やぐるまそう》。シネラリヤとヒアシンス。薔薇《ばら》とマーガレットと雛罌粟《ひなげし》と。
「お前の顔は、どうしてそう急に美しくなったのだろう。お前は十六の娘のようだ。お前はいっぱいのスープも飲まないくせに、まるで鶏《にわとり》の十五、六羽もやっつけたような顔をしている。不思議な奴だ。さては、俺の知らぬ間に、こっそりやったと見えるな。」
「あの百合の花を、この部屋から出して。」と妻はいった。
 百合の匂いは他の花の匂いを殺してしまう。――
「そうだ、この花は、英雄だ。」
 彼は百合を攫《つか》むと部屋の外へ持ち出した。が、さて捨てるとなると、その濡れたように生き生きとした花粉の精悍《せいかん》な色のために、捨て処がなくなった。彼は小猫を下げるように百合の花束をさげたまま、うろうろ廊下を廻って空虚の看護婦部屋を覗《のぞ》いてみた。壁に挾まれた柩《ひつぎ》のような部屋の中にはしどけた帯や野蛮なかもじ[#「かもじ」に傍点]が蒸された空気の中に転げていた。まもなくここで、疲れた身体を横たえるであろう看護婦たちに、彼は山野の清烈な幻想を振《ふ》り撒《ま》いてやる
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